AO入試 プレゼン能力 現代のベートーベン ノーベル賞級の大発見

Wikiで調べるとこんな感じ。

AO入試(エーオーにゅうし、アドミッションズ・オフィス入試)は、出願者自身の人物像を学校側の求める学生像(アドミッション・ポリシー)と照らし合わせて合否を決める入試方法である。A.O.(Admissions Office)とは「入学管理局」の意。
1990年慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC2学部)が、他に先駆けて導入した。学科試験の結果で合否が決まる一般入試とは異なり、志望理由書、面接、小論文などにより出願者の個性や適性に対して多面的な評価を行い合格者を選抜する。同様の選抜方式が一律にAO入試と称されている訳ではなく、自己推薦入試(AO入試とは別に自己推薦入試という名前の入試が存在する大学もある)、公募推薦入試、一芸入試等[1]、各学校、各課により名称は様々である。一部の学部(主に医学部・歯学部・薬学部等)においては、入学後の学業遂行の為必要とされる最低限の学力の確保として大学入試センター試験または大学独自の個別筆記試験を課すことがある。ただし、AO入試はあくまでも点数よりも人物を重視する入試であるので、点数は合格するための最低条件である大学が多い[要出典]。例えば、長崎大学医学部医学科の2012年度AO入試では、センター試験で80%以上の点数を取っていなければ合否の選抜対象に入らない。
「中教審」(中央教育審議会)の場で、「AO・推薦入試」が、「大学生の学力低下につながっている」と危惧する声があり、学力を担保するために、新たに設ける学力試験「高大接続テスト」(仮称)を実施すべき[2][3]との検討がなされている。また、多くの私立大学においてAO入試が、学校経営安定の為の入学者の早期確保の手段となってしまっているという指摘がある。旧来型の推薦入試では出願が11月以降という決まりがあるが、AO入試にはこの規制がないため、夏休み前に合格者を出しているケースも少なくない[4][5]。一方で、入学までに空白期間が生じることを利用し、「入学前教育」を実施している大学が多く出てきている。ベネッセが2005年度にAO入試を実施した大学を対象に調査したところ、74%の大学が入学前教育を行っていた[6]。また、早稲田大学が人間科学部の自己推薦入試を廃止し、教育学部も定員を3分の1にして評定平均の基準を引き上げるなど、各大学にはAO入試から離れる動きもある[7]。一方、AO入試で入学した学生の方が、一般入試で入学した学生よりも学力が優れているという報告もある。例えば慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスでは、「AO入試の導入以降、一貫してAO入学者のGPA(Grade Point Average)換算の成績(平均値)が一般入試による入学者よりも高い。」[要出典]、また、早稲田大学においても、「(AO入試による)入学者の入学後の学業成績も、一般入試による入学者に比べ概ね良好である」と報告している[8]。早稲田大学の AO入学者には小保方晴子や広末涼子ら著名人がいる。また、読売新聞が公表した最近の調査によるとAO入学者は一般入学者に比べ退学者が6倍に上るとの報告がなされている。

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農業の場合には、他人にアピールする力とか、プレゼン能力なんかは、二の次で、黙々と働く人がいい。工業生産でも、たとえば富岡製糸からトヨタ自動車まで、プレゼン能力が優れていてもどうしようもない。実際に物を作らないといけない。作っていればあとは大目に見てもらえる。 科学論文を書くなどという仕事も、従来は、プレゼン能力とは別と考えられていた。プレゼン能力とか、営業能力は、微妙に嘘をつく能力と似ているところがあるのでそれを排除し、科学として、誰でも、どこでも、何回でも、再現可能な手続きが記載されていることが自然科学の条件である。その解釈については、理論物理学とかの領域で、部外者から見るとファンタジーのようなものではあるのだが、ファンタジーかどうかはさておいて、そのような理論を考えたとして、どのような観測結果が予測されるのか、という話になり、成功する理論物理学は、正しい予言をして、30年後などに理論の正しさが検証されたりする。また、反証可能性の話にもなる。

つまり、科学の方法とは、はったりとか、詐欺師とかを排除して、ただしい知識の体系を築く方法論であった。錬金術士の時代とか怪しい医術の時代とか、そのような負の遺産からやっとのことで捻出された方法論である。キリスト教国では、いつまでも、神の手による一回だけの奇跡とか言い張る人がいるので、それは宗教として別立てにしておこうということだ。

慎重に事実だけを選びとるように考えているのだが、トマス・クーンなどが指摘するように、科学の営みも、時代の流行にやはり影響される。しかしそれも、長い年月を経過すれば、役に立つものだけが残るだろうと、控えめに言うことはできるだろう。

しかし時代は生産能力過剰の時代である。必要なものを売るのではなく、不必要なものを売ることで、評価される時代である。生命保険や疾病保険の宣伝がテレビで繰り返される。グルコサミンとかコンドロイチンとか不当表示ぎりぎりで宣伝される。消費されるものはモノから体験にシフトして、そうなるとますます、プレゼン能力だけが幅を利かせる。宣伝上手で先にブランドを確立したほうが有利である。消費者は多様に分別されるが、そのなかでも、一番宣伝に乗りやすく、抵抗なくお金を使う傾向のある一群をターゲットにして、宣伝は繰り返される。

そのような世情の中で、現代のベートーベンがNHKスペシャルで大宣伝されて、実際に大きな利益が生まれるという事件が起きた。生物学の世界でも、誰にも再現できない実験を報告して、多数の関係者がその後、論文を撤回するという事件も起きた。科学実験としては成功ではなかったが、世間に対するプレゼンテーション技術としては大成功であった。しかし彼らが、なぜ再現性のない実験を論文に記述して、平気だったのかという根本的な疑問は残ったままだ。「ばれやすい」写真の使い回しなどが問題になったらしいが、理論そのものとか観察そのものが、科学的手続きによって否定されたわけではないのだ。逆に言えば、なんの根拠もなく、そのように言い張る余地が科学の世界にあったということで、これは常温超電導という前例もあることで、制度としてそこには明らかな脆弱性があり、放置されているということだ。バグが放置されているソフトのようなものだ。  プレゼンテーション能力は、本質的な説得力や論理力はいらないということが安倍総理の言動を見ているとよく分かる。全人口の中のある種の人々を、本質のない、プレゼンテーションだけで、説得するのが、彼に与えられた役割である。つまり、筋の通らないことも、通してしまうことが、彼の役割である。「そんなことはできない、あまり無理を言うならアメリカ国債売るぞ」などと言った人は粛清された。この点では北朝鮮No.2の粛清と何も変わりはないのである。  そうした時代を背景にして、AO入試というものも存在しているのだろう。もちろん、たくさんのインチキが支配している世界なのであるが、あまりにあからさまなインチキはマズイだろうというのがこれまでの了解であった。少なくとも、子供には内緒にしておこうということになっていた。それは汚い大人の世界であって、子供は真っ直ぐ正直に生きてほしいと、大人はいつも願っていた。しかしどの世界も貧しくなり、紳士然としてはいられなくなったということだろう。 

現代のベートーベンも、ノーベル賞級の大発見も、氷山の一角であって、この世界の倫理の緩みはますます激しい。代わりに作曲してお金をもらって何が悪い。代わりに歌を歌ってお金をもらって何が悪い。代わりに作文してお金をもらって何が悪い。私はそういう商売をしているのだという話だ。作曲できても、プレゼンテーション能力がないなら、商売にならない。だから、プレゼンテーション能力のある人と組めばいいということだ。それが商売だという、商売観である。歌はうまいが見栄えがしない。作文はうまいが話題性がない。実質何ができるかではなく、テレビ画面の中で、印象に残るプレゼンテーションができる、言い換えると脚本通りの「演技」ができる、そのような人材が「現代的人材」である。もちろん、裏方として、漫才の台本を書いている人もいる。それも必要な人だ。その人はそれで生活ができる。それもいいことだ。  しかしそれにしても、そのような、微妙な嘘が制度化してしまって、隠しもしない世界になってしまっているということが悲しい。テレビでは株を買いましょうと宣伝があり、政府は非課税の枠を広げるとか言っている。商売のためならいいらしい。 ネットの商店街の話。広告を出しませんかとセールスマンが来る。これだけ広告費を出せば、これだけ儲かりますと、プレゼンテーションする。始めてみると思ったようにはいかない。セールスマンがやってきて、それでは、今回特別の枠で、こういう企画で行きましょうなどという。しかしそれもうまく行かない。そんなふうに広告費を使い続けて、息切れがしてくる。そのうちセールスマンは交代していなくなってしまう。違う担当者がやってきて、ちがうプレゼンテーションをする。実態の定かでないものはいくらでも言い逃れができるし、理屈がつけられる。それはAO入試そのものとも思える。 
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話はそれるが
たとえば銀行に勤務していてとてもおもしろい文章を書く人などがいたりするものだ。
その人は本来は文章化としてふさわしいのだが、もちろん、銀行家としても有能なので、
不安定な文章化の道などを選択することはない。数学の能力などもそのようなもので
数学で食べていけるとはたいてい思わないので
とりあえず職を探すと、基本的な能力が高い人にはそれぞれかなりの道が用意されているので、
数学そのものには進まないという結果になる
ほんらいならば数学教師などがいいのだろうという人が
別の仕事をしている  
つまり他に何も能力のない人でかろうじて文章が書けるという人たちの分野に文学村がなっているという可能性はないでもない

まあ、それは別の話だ
2014-07-13 23:55