メンタライゼーション

メンタライゼーションについてネット上でお勉強しようとしてみました
ーーー「『メンタライゼーション機能』とは、自分自身や、自分にとって大切な(愛着対象である)他者の気持ちの中に起こっていること(気持ち、感情、意図、葛藤など)にしっかり気づき概念化する心的機能のことである」
「境界性パーソナリティ患者においてメンタライゼーション機能が低いということは、つまり、自分自身の主観的な体験や自分自身の主観を通しての重要な他者の主観的な体験についてしっかりとらえることができていない、ということを意味している」
ーーー自分や他者の気持ちを知る、または推定することが大切
自分や他人の心に気付くといえば早いのだろう
相手の気持ちに気付くということそして相手の気持を推定するためにはこんな場合に自分なら内面ではどう感じるかが基本になるだから自分の気持ちを知ることが大切になる
しかしそこで自分の気持ちが他人の気持ちと大幅にずれていると手がかりを失う
解決は自分の気持ちを参照しないで知的に他人の心を理解すること
あ、それって、心理学を学ぶ動機ですね!
ーーーフォナギーとベイトマンらによる「メンタライゼーション機能に焦点づけられた精神療法MBT」という精神力動的精神療法というわけでフォナギーに飛ぶ
Peter Fonagy母親のmirroringを中心に、(1)個人の主観的体験の様式と自己の発達に寄与する現実の養育者の役割が強調されている、(2)特に境界性人格障害に関して虐待の影響を重視している、(3)それに関連して脳の発達上の障害を考慮している、(4)また、対象関係よりも自己の発達が発達論の中心にある、(5)とりわけ同一性の維持が重視されている、という点が特徴
mirroringの重視、およびそこに含まれるreflectionやmentalization
心と自分とは同じではない 
自分の中に、心と呼ばれる、自分がよく知らない、自分とは異なる動きをする部分がある
ーーーそれでは Fonagy,Bateman 先生の考えは?
ここでFonagy, Bateman 著の「メンタライゼーション」のテキストについて読んでみよう。そこで Fonagy らは、従来の精神分析的技法がBPDを「作り上げる」とまではいわないけれども、その症状を悪化させるようなファクターと考えている。
例えばメタファーの使用や解釈などは、患者を混乱させ、患者を「心的等価物」や「ごっこモード」を主体としたかかわりに誘い込んでしまい、治療者とのパーソナルな関係が失われるというのだ。だからBPDとの治療では、あまり分析的ではない、もっと普通のかかわり、例えば明確化、精緻化、共感、直面過などの、むしろ通常の会話によるかかわりをむしろ必要とするという(p345)。
ここで心的等価物 mental equivalent やごっこモード pretend mode, ないしは目的論的姿勢というのは、著者らが考えている、BPDの主要な特徴なので、少し見ておきたい。心的等価物とは、例えば治療者とセッションが終わって、実際に見捨てられたような気になってしまうようなこと。それに比べてごっこモードは、自分におきたことが人事(ひとごと)のように思われること。このように考えるとごっこモードと心的等価物は、一見正反対の現象だが、両者は表裏一体といえる。
本来人間は、対人関係において他人に起きたことを自分の中で疑似体験し、また自分の実際の体験を他人でも起きているように想像するという機能を持つ。こうして私たちは人の気持ちを「わかる」のである。
例を挙げよう。ある朝、あなたが友達と一緒に登校する。あなたが寒いと感じて、友達に「今朝寒いよね。」という時、自分の「寒い」という体験を、おそらくその友人も体験しているであろうと想像するから、そのような言葉が出る。ところがその友人がむしろ「いや、涼しくて気持ちいよ。」と言ったとして、あなたはそれを意外に感じたとする。そのときはその友人が涼しい、と感じていることを自分自身で想像し、しかる後に自分の「寒い」という実体験との落差を感じて驚くというわけである。つまり自分の体験を人の心の中に読む、他人の体験を自分の心の中に読む、ということがおきているわけで、この両方が機能することにより人の気持ちをわかり、相互の心のこもったコミュニケーションが可能になる。ところが自分の体験を実感できないと、あるいは他人の体験を自分に移すことが出来ないと、それらの体験は、まさに「人事(ひとごと)」になり、彼らのいう「ごっこモード」になってしまうというわけだ。

医原性、という問題とは少しはなれるが、結局 Fonagy 先生たちが行っているのは、BPDにおける「人の心のわからなさ」ということである。しかしこの話からすれば、一種の脳機能の不全というニュアンスもあり、そこには発達障害的なニュアンスが伴うといってもいい。ここで図らずもBPDとアスペルガー障害の関連性が示唆されていることになるが、もちろん両者は類縁疾患とはいえない。ただメンタライゼーションの障害として一方では、アスペルガーが語られ、他方では Fonagy などによりBPDが論じられていることも事実なのである。
さて「医原性」である。彼らは、古典的な精神分析的なやり方では、人の気持ちをわかりにくいという特徴をもつBPDの患者さん達を混乱させてしまうという。
分析的な手法は、それが意味を持つためには心の充分な機能を必要としているのであり、BPDに対してそれを行うのは、処理不能なタスクを与えて混乱をさせるだけだ、ということなのであろう。
その意味での「医原性」なのであるが、私が昨日まで考えていた内容とはかなり違うことになるだろう。私の議論は、「ボーダーライン傾向は通常の人間が皆持っているのであり、治療者の分析的な態度はそれをかえって助長しかねない」という意味での「医原性」である。他方Fonagy 先生たちの議論は、「BPDの人は通常の人と異なっており、分析的な態度は彼らを混乱させることで病理を助長する可能性がある」という主張である。後者の方はより理論的であり、患者の認知プロセスに関する議論であるのに対し、私の考えは、情緒レベルでの影響を扱っていることにある。
ーーーMBTの特徴は「対人関係に焦点化され、そこでの他者や自分の内的状態を理解する能力に焦点化されている」こと、それによって実証性を保ち、効果研究を可能としていると言えるのではないかと思います。
対人関係こそが治療の舞台であり、また道具でもあるわけです。治療者の介入は個人の対人関係のあり方と、そこでのmentalizationに焦点化されています。
Kernbergのモデルにもとづく、Transference Focused Therapyにおいては転移関係が治療の焦点となり、その転移関係とそこでの対象関係を解釈していきますので、両者の違いは何を焦点にするか、それをどう取り扱うかということになるでしょう(MBTでは解釈はそれほど重視されませんので)。
MBTは治療を構造化しています。その焦点は対人関係とそこでのmentalizationにあり、転移も解釈も空想もそれほど重要ではなくなります。これらが力動的精神療法との違いであると思います。彼らは境界性人格障害の治療において、治療が構造化されていることが何より重要であると述べており、1つにはこれが臨床上の有効性につながります。
MBTとDBTとの共通点
1つ目の、そしておそらく最も重要な共通点は、両者が非常に高度に構造化されているということだろうと思います。先に述べたように境界性人格障害の治療において「構造化されていること」は非常に重要な治療因子であるようです。この構造化には、個人セッションをどのくらいの頻度で持つか、集団精神療法はどのくらいか、表現療法などの他の治療法はどうか、薬物療法についてはどうか、それらは互いに治療のどの部分を担当するのか、それらは誰によって担当されるのか、複数の治療者あるいは治療スタッフは互いにどのような役割を持つのか、その間の連絡はどのようになされるのか、治療の目標は何か、それはどのような視点からアセスメントされるのか、誰によって設定されるのか、それぞれの治療法において初期の目標は何か、そのために何をするか、何に焦点化するか、特定の問題が生じた際にはどのように対応するか、患者に課せられる課題は何か、中期ではどうか、後期ではどうか、治療の終結をどのように判断するか、どのように判断するとどのように患者に伝えるか、実際にどのように終えていくか、録画や録音はするのか、それらのスーパーバイズはどうするか、どのようなトレーニングを行うのか、そういったことが含まれています
→ だから、高度に構造化された先祖供養を代々考えて制度化しているんですね
境界性人格障害の病理の理解ですが、両者とも情動制御不全に注目しているところは同じですが、MBTにおいてはさらにそれが愛着関係、あるいは対人関係において生じること、そこにmentalizationの不全が関わっていることを想定しています。そのため介入の焦点は対人関係とmentalizeの在り方にあてられ、介入の方法は自分や他者の心の状態の理解について話し合うことが中心になります。対人関係上のスキルの獲得は補助的な役割になります。これに対して、DBTでは情動制御不全に焦点を当てながら、もともとが自殺への介入から発展した方法であることもあって、自殺しないことが最も中心的な目標になってきます。そのために情動制御、特に情緒をありのままに受け入れることと同時にその苦痛な情緒が変化していくことの弁証法が導入されていきます。
心理療法の統合の話題 → 当然それは考えるし、考えるまでもなく、実践していると思うそれぞれにいいところがあるのは当然だしかしでは、それぞれにいいところとはどの点なのかと、厳密に問うことが出来るはずなのだ
MBTは精神分析に比べると、第一に境界性人格障害だけが対象であり、第二に焦点が定められ介入法が定められており、第三に転移と空想の解釈がそれほど取り上げられない、第四にその発達論、という点において、精神内界を重視するのではなく、より現実の側に足を置いた治療法
「解釈=治療者のmentalizationなので、控えるべき」「患者さんが自分でmentalizeする機会を奪うべきでない」
「解釈は仮説として提示し、いろいろな視点から行動の意図・意味を検討することでmentalizationの機会を作る」
mentalizationとは他者の行為や行動を意図や目的、動機、願望、感情、などの観点から理解することであり、それが自分のものとは違う他者独自のものであることを認識することだと言えると思います。
治療者は「私はあなたのことを心配していますよ」と自己開示し、患者さんの視点とは違う治療者自身の視点を示したりしながら、「なぜあなたはそう思ったのでしょうか」と患者さん自身の心のmentalizeを促したりするのだと思います。また、不在の対象が母親であったりすれば、「お母さんがそこにいなかった理由として他にどんなことが考えられますか」と母親の心についてmentalizeを促したりするのです。
精神分析とMBTの違いはいろいろありますが、精神分析的な解釈とmentalizationの違いは、おそらくこのようにいろいろな視点というものを検討する中で、心理療法家の側の自己開示を行い、提案を行い、仮説を提示し、こういう可能性はないだろうか、こういう可能性は?と話し合っていくことだろうと思います。精神分析ではおそらく分析家の側からの刺激をできるだけ控えるだろうと思うわけです。
間主観的なアプローチ
乳児が自分の情緒に気付き、それを取り扱えるのは、養育者による適切なmirroringがあってこそ、その間主観的な相互作用が自己を発達させる、という観点はまさしく間主観性の枠組みではないか
間主観的アプローチの分析家と対象関係論の分析家との反応には大きな温度差
ーーー間主観性=関与観察=相互的観察のようですね。
客観的アプローチ(客観的観察)と間主観的アプローチ(関与観察) 従来の発達心理学では、研究対象を客体として客観的に観察する客観的アプローチが主に用いられてきた。 客観的観察とは、観察者が関与しない形で被観察者の行動を詳細に記録していく方法である。この観察方法の目的は、被観察者の行動だけを問題にし、?すれば・・・するといった客観的な法則を見つけることにあり、この点で極めて行動主義的な研究方法であるといえる。 これに対して、関与観察とは、観察者自らが観察現場に身を投じ(関与し)、被験者と関与する中で被観察者の行動を読み解いていく方法である。この場合、被観察者の行動を記録するだけでなく、その行動がどのような《雰囲気》の中で為されたのか、そしてその行動がその場においてどのような意味を帯びてくるのかを観察者が読み解いていく。この観察方法の目的は、客観的観察(行動がなされたという客観的な出来事)だけでは見落とされている部分を拾うことにある。実存論的なこの観察方法は、間主観的アプローチと呼ばれ、被観察者の主観を観察者が実存(自己の主観)を通して共感・共有していくものである。 人間関係において、人々は言葉を解してコミュニケーションを図り、互いの気持ちを確かめ合い信頼を築いていく。しかし、伝えているのに伝わっていない、伝えていないのに伝わっている、つまり言葉以外の部分でのコミュニケーションによって人間関係が保たれていることも多い。長年生活を共にする家庭内での人間関係などは、特にその傾向が強い。母親の態度が母親の子どもへの気持ちとして子どもが汲み取り、その気持ちに対して子どもが態度で反応する。そして、子どもの反応を見て、親が子どもの気持ちを汲み取り、反応する。このように互いの気持ちを汲み取っていくようなやり取りは、客観的観察(単なる観察記録)だけでは把握しきれない。この意味で、間主観的アプローチ(関与観察)は家族関係・家庭教育の研究に非常に有効な手段であるといえる。
渡辺久子 間主観性とは、相手の感情を察することと説明しています。 具体的に、一次間主観性は相手の気持ちを察すること。生後5、6週に出現。 二次間主観性は、一次からもう少し進んで、興味あることを誰かと一緒にわかちあおうとすること。生後6から7ヶ月に出現。そして、まとめのところで、「つまり母親が乳児をかわいいと素朴に思えるとき、その’はら’の感情は、確かに子どもに伝わる。母親が幸せにわが子を抱きしめることができると、明るい交流が自然におきる。その意味で母親だけでなく、すべての保育、療育の現場の大人が気をつけることは、子どものとふれあうときに、真にその子と今ここでともにいきていることを楽しみ、幸せに思えること」と結んでいます。教育関係の論文から 間主観的アプローチと関与観察を同義語で使っていました。ここでは、次のように説明をしています。母親の態度が、母の子どもへの気持ちとして子どもが汲み取り、その気持ちに対して子どもが態度で反応する。そして、子どもの反応を見て、親が子どもの気持ちを汲み取り、反応する。こうした、互いの気持ちを汲み取っていくようなやり取り。 と説明しています。
ーーーいや、ここで見ているのは、間主観性とは何かではなくて世間では間主観性をどのように考えているかというメンタライゼーションです
というわけで心理学が役に立ちました
ーーーーー現象学の領域で言う間主観性
「相対主義」の問題を克服したのが、「間主観」「相互主観」であり、それは無理のない意味での「(超越論的な)相対主義」である。
現象学では、超越視点(客観視点)をもたない。私の視点が全てであり、全ては主観内で閉じ、その外部に出ることは背理である。
(簡単に言えば)外部をエポケー(保留)した主観を、「超越論的主観」という。
超越論的主観の中では、他者も「構成されて」あり、他者も私と同じように「主観」をもつ他者である。
そして、「私」も「他者」と同様にその中で「構成されて」ある。

「自己主観」も同一生活世界の中で「他者」と同様に「1個の主観」であり、対象化、相対化された主観である。間主観は、そういうことを理解している主観である。
フッサール現象学の基本理念
ーーー考えてみれば一般に意識を記述する際の問題がある
意識の記述についての現象学批判
・現象学は「経験を反省して記述可能である」というが、記述するときには、その経験は既になく、その経験を思い出すか、現在の経験を記述するというありえない構図(記述することは記述できない)かどちらかである 
・意識はどのように描いても、描かれたものは、直接的な所与、経験ではない
これは、割とよくある現象学批判の一つですが、簡単に言えば、
・経験を反省すると、元の経験と異なる(から経験は記述できない) ・意識自体は記述できない
という批判です。
しかしこれは、現象学が「本質学」であり「本質、ノエマ的意味の記述」ということを誤解している批判です。
そして、「イデーン I」「内的時間意識の現象学」「現象学の理念」などでフッサールが既に回答(例えばヴァットの批判への回答等)している問題です。フッサールの回答を加味して更に疑問・批判ならまだわかるのですが、そういう訳ではありません。これ以外にも既にフッサールが回答している問題をそのまま批判している例はよくあります。批判する側も、受ける側もフッサールの回答を前提としていないことになり「現象学批判、議論」として機能していません。
フッサールの回答を引用すると「膨大」なので、要約してみます。
「経験を反省すると、元の経験と異なるから、元の経験は記述できない」という場合、既に、「反省内容」と「元の経験」を比較し、異なる、と言っているのであり、「元の経験」は把握しているのである。「元の経験を把握している」のに「元の経験などわからない(記述できない)」とは矛盾である。もし、「元の経験は把握していないが、異なるはずである」と言うなら、何故把握してもいないのに「異なるはず」と言えるのか? 
どんな「反省」も、意識の変様である。変様された意識も、元の意識と「同じもの」についての意識で ある。この平行的な体験は、共通の本質をもつ。既に変様した体験から出発しても、元の体験へ連れ戻される。 
体験は、一つの流れであり、この流れの跡を追うことは出来るが、流れた過去は、反省しても失われている。ただ過去把持の形式においてのみ、流れ去ったものについての意識をもつ。対象は過去把持をもった時間意識の中で同一の「対象」として把握されるのであり、そのつど目に映ったものが把握されているのではない。 
本質把握の目差しは、反省的に対象化されていない体験も捉える。「反省」は、それ自身が「一つの新しい体験」であり、この体験の中に、「反省されていなかった体験」も取り込まれる。体験に「反省的直観」を加え、「理念を観て取る働き」により「本質把握」を行なえば、体験は「持続する」。 
流れ行く具体物は、術語化などできない。しかし、本質に対しては、厳密な概念的把捉、本質分析を施しうる。我々が記述するのは、知覚一般の類的本質であり、想起一般、意欲一般等の、類的本質である。従って、志向的な相関者を忠実に記述する場合、偶然的ではない、本質法則によって規制されている性格を、厳密な概念において確定しなければならない。 
我々は、「現出するものそのもの」を、忠実に記述することができる。知覚をノエマ的観点において記述することができる。体験のどれにも、ノエマ的意味が「その中に」「住みついている」
要するに、現象学が記述するのは「本質」の記述であり、意識の対象について記述可能であるというのは、「(ノエマ的)意味」の記述が可能であるということです。
例えば、「カエルの声が聞こえる」というのは、単に経験しようと、反省しようと、その本質内実に変化はなく、「意識体験は反省により変様しても」「本質は変化せず」その本質は記述可能である、ということです。
ーーー本質があるというのも困難主観のみであるというのも困難
間主観と言っても伝わりにくい
誤解しているのかどうか検分することも難しい
もうどうでもいい、どう認識していてもあまり変化ない、というのが実情のようだ
ーーー心理学も哲学もどうでもいいという場所で安らかに生きられるそれを発見するだけで充分である
発見する前に心得ている人もいるその人には何も要らない
うちのおばあちゃんなんかそうでした