あらすじ
前の奥羽五十六郡の太守、岩城判官正氏の一族は、讒言によって筑紫に流された。本国に残され落魄した正氏の妻と、その2人の子供、安寿と厨子王は、正氏を訪ね求めて越後の直江津にたどり着いたとき、人買いの山岡太夫の手にかかり、妻は佐渡二郎の手で佐渡に、姉弟は宮崎という人買いの手で丹後由良湊の長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡された。山椒大夫のもとで姉弟は酷使された。弟は1日に3荷の柴を刈れ、姉は1日に3荷の潮汲みをしろ、間があれば藻潮を焼く手伝いをしろ、糸を紡げ、と追使われ、弟は柴刈り払う鎌を怨み、姉は潮汲む桶に泣いた。
ある日姉の安寿は、弟厨子王に勧めて密かに逃れさせようとした罰として額に焼きごてを当てられた。しかし肌の守りの地蔵尊のおかげで痕がつかなかった。
姉弟はついに、再会を約して逃亡を図った。しかし、安寿姫は都へと逃れる途中由良川のほとりの村で飢えと疲れで亡くなった。安寿姫の亡骸は村人により丁重に葬られ、現在その地に祠と小さな公園がある(安寿姫塚)。時に永保2年正月16日、安寿16歳、厨子王13歳であったという。
一方、厨子王は丹後の国分寺に逃げ込んで寺僧に助けられ、京都七条朱雀の権現堂に送られた。さらにまた摂津の天王寺に寄食するうちに梅津某の養子となり、ついに一家没落の経緯を朝廷に奏上した。結果、判官正氏の罪は赦された上旧国を与えられ、讒言者の領地は没収され厨子王に下賜された。
安寿姫の霊はその後母と弟を守護し、岩城家再興の機運にめぐまれた厨子王は、丹後、越後、佐渡のなかで若干の土地を得たいと願い出て許され、領主となって丹後に行き、ねんごろに国分寺の僧侶にむくい、山椒大夫と子三郎とを鋸挽きの刑に処し、越後で山岡太夫を討ち取った。母を佐渡にたずね、片辺鹿野浦で、母が瞽女(ごぜ)となって鳥を追う唄をうたっているのにめぐりあった。「あんじゅ恋しやホーラホイ ずしおう恋しやホーラホイ」。厨子王は、この歌を聞いてこれぞ母と知り、駆け寄りすがりついた。うれし涙に霊しくも母の眼は開き、母子は再び抱き合ったという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
語られていない部分に涙が出ます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家族物語としての山椒大夫(2)
―説経節から義太夫節へ―
塩谷千恵子
1.はじめに
「山椒太夫」(1)の物語は、今日では森鴎外の小説や絵本などで広く知られる。だが、この物語の成立は古く中世に遡る。そのはじまりは、庶民の口承文芸として形成されたものであるが、近世以降、浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵、読本などの題材となって多くの作品をのこした。それらは、いずれも庶民が愛好した芸能であり、庶民の価値観が色濃く反映されている。しかし、物語内容は同じではなく、時代とともに変化している。
本研究は、「山椒太夫」を家族物語として解読することにより、庶民層(2)における家族観を調べるものである。そして、近世から現代までの「山椒太夫」の諸作品を分析対象として、家族観の変化を通史で捉える。
現存最古の「山椒太夫」は、近世初期に刊行された説経節の正本である。そこで、私はこれまでの研究において、まず説経節「山椒太夫」の成立過程を調べたが(塩谷 1997)、本稿では、近世中期における義太夫節の作品をとりあげ、説経節から義太夫節への変化を追う。分析対象とするのは、紀海音(1663-1742)作『山枡太夫恋慕湊』と竹田出雲(1690-1756)作『三荘太夫五人嬢』である。分析方法は説経正本の時と同じく、主人公の厨子王の家族(岩城一家)を中心に、家族メンバーの関係を、親子・夫婦・きょうだい・主従・擬制的家族関係などで多角的に分析する。同じ「山椒太夫」でありながら、説経節と義太夫節では、物語内容が大きく違う。だが、その改作のされ方に、近世初期から中期への家族観の変化を見ることが出来ると思われる。
2.説経節の衰退と義太夫節の興隆
説経節は、中世から近世にかけて流行行した浄瑠璃(音曲の語りもの)であり、近世初期には著名な太夫の正本が次々と刊行される。だが、万治から延宝年間(1658-80)を最盛期として、天和から宝永期(1681-1710)にまず上方で衰退し、正徳期(1711-15)以降は江戸からも姿を消す(室木 1995)。代わって興隆する浄瑠璃は、竹本義太夫(1651-1714)によって創始された義太夫節である。義太夫節は、説経節だけでなく、説経節と並行していた、金平節、土佐節、嘉太夫節などの浄瑠璃をも圧倒し、義太夫節はやがて浄瑠璃の異名となるまでになる。
「山椒太夫」は、説経節の人気演目(3)の一つであったが、説経節が衰退しても、物語自体は義太夫節や、あるいは浄瑠璃の枠を越えた歌舞伎の題材となって広がって行く。次頁の表は、18世紀半ばまでの「山椒太夫」の正本刊行と興行一覧である。義大夫については『義太夫年表 近世篇』(義太夫年表近世篇刊行会 1979)、歌舞伎については『歌舞伎年表』(伊原 1956)から抄出し、興業記録のない説経節は現存正本の刊行年を入れた。なお、本表に挙げた他にも、この期の「山椒太夫」の作品として、土佐節と嘉太夫節の正本(いずれも刊行年不詳)(4)があるが、それらについては別稿で考祭する予定である。
本表をみると、説経節が最盛期を過ぎた17世紀末の延宝6年から、歌舞伎に「山椒太夫」の演目がみえはじめる。そして説経節は、衰退期に入った18世紀はじめの正徳3年版を最後に新たな正本は刊行されなくなるが(1718年は正徳本の、22年と25年は寛文本の復刻である)、入れ代わるように義太夫に「山椒太夫」の作品が登場する。
義太夫節における最初の「山椒大夫」は、1711年(推定刊行年)の『山枡太夫恋慕湊』である。本作は1718年に、当時の事件(5)に取材した『山枡太夫葭原雀』として改作上演されている(大橋 1977)。次は、1727年の『三荘太夫五人嬢』である。本作は大坂で初演された当初から評判が高く、同年中に歌舞伎にも取入れられ(堤 1990)、その後30年にわたって京阪や江戸などの各地で繰り返し上演されている。そして1761年の『由良湊千軒長者』は、『三荘太夫五人嬢』の改作である。また『三荘太夫五人譲』は、歌舞伎ばかりでなく、唱道の説教本にも影響を及ぼし、1767年に刊行された『三奘太夫盛衰録』や、さらに時代が下る1894年刊の『連夜説教 三荘太夫』の構想の大半は、本作に拠っていることがそれぞれ指摘されている(堤 1990、関山 1989)。義大夫節が近世中期、歌舞伎をも凌いで興隆したことを考えると、『三荘太夫五人嬢』は近世中期における「山椒太夫」の代表作であり、その命脈は長期にわたって保たれたといえよう。
そこで本稿では、義太夫節の「山椒太夫」の中から、最初の作品『山枡太夫恋慕湊』と代表作『三荘太夫五人壌』の二つを分析作品に選び、説経正本と比較しながら、家族観の変化をみて行くことにする。
3.『山枡太夫恋慕湊』と『三荘太夫五人嬢』の特徴
家族分析に入る前に、分析作品の全体を眺めて見よう。
56頁の図1〈HTML版では省略。昭和女子大学女性文化研究所紀要 第21号(1998.1)参照のこと〉は、説経節「山椒夫」と義太夫節『山枡太夫恋慕湊』(以下『恋慕湊』と略す)および『三荘太夫五人嬢』(以下『五人嬢』と略す)の主な登場人物である。説経節では、最古の正本から最も時代の下る正本までおよそ80年の間があるが、登場人物の設定自体は同じである。しかし義太夫節になると、新たな人物が加わり、さらに従来の登場人物間の関係構造も変わる。表 18世紀半ばまでの「山椒太夫」に関する正本刊打及び興行一覧
刊行及び興行年 題 目1639年(寛永16)? 説『さんせう太夫』
1656年(明暦2) 説『せつきやうさんせう太夫』
1667年(寛文7) 説『さんせう太夫』
1673年(延宝元) 説『三庄太夫』(寛文本と同じ)
1678年(延宝6) 歌「あんじゅのひめ」「ずし王丸本意のしょち入り」当時の当たリ狂言なるべし。
1691年(元禄4) 説『さんせう太夫』(寛文本と同じ)
1705年(宝永2) 歌〈江戸〉抽良湊山庄太夫』
1707年(宝永4) 歌〈京〉『三荘太夫』
1710年(宝永7) 歌〈江戸〉『三升大夫』
1711年(正徳元)? 浄〈大坂〉『山枡太夫恋慕湊』歌〈大坂〉『女三庄太夫』
1713年(正徳3) 説『三庄太輔』
1718年(享保3) 歌〈京〉『山椒太夫』
1718年(享保3) 歌〈京〉『けいせい山椒太夫』
1718年(享保3) 歌〈大坂〉『山椒太夫』
1718年(享保3) 浄〈大坂〉『山椒太夫葭原雀』
1718年(享保3) 説『三庄太輔』(正徳本と同じ)
1722年(享保7) 説『さんせう太夫』(寛文本系統)
1725年(享保10) 説『さんせう太夫』(享保7年の復刻)
1727年(享保12) 浄〈大坂〉『三荘太夫五人嬢』
1727年(享保12) 歌〈京〉『三荘太夫五人嬢』
1728年(享保13) 歌〈大坂〉『三椒太夫五人畸人』
1729年(享保14) 浄〈京〉『三荘太夫五人譲』
1731年(享保16) 歌〈名古屋〉『三荘太夫』『五人娘』
1734年(享保19) 歌〈堺〉『山升太夫五人娘』
1735年(享保20) 歌〈大坂〉『山椒太夫五人●《足へんに奇》』
1736年(天文元) 歌〈京〉『三庄大夫』
1743年(寛保3) 浄〈江戸〉『三荘太夫五人嬢』
1748年(寛延元) 歌〈京〉『三庄太夫五人娘』
1753年(宝暦3) 歌〈大坂〉『山椒太夫五人●《虫へんに唇》』
1754年(宝暦4) 歌〈江戸〉『由良千軒●《足へんに奇》鬼湊』
1757年(宝暦7) 歌〈大坂〉『三荘太夫五人娘』
1761年(宝暦11) 浄〈大坂〉『由良湊千軒長者』説=説経 浄=浄瑠璃 歌=歌舞伎 ?は推定年 〈 〉内は興行地 まず、説経節においては岩城家の家臣はうわ竹一人であったが、『恋慕湊』では彼女の夫と息子、義埋の娘が登場し、『五人嬢』ではさらに、夫、義父、義兄とその妻子が加わる。また、うわ竹一家の他にも、岩城家の家臣として、『恋慕湊』では国家老(安達大膳)が、『五人嬢』では元家老(鬼柳一学)とその娘たちが登場する。つまり岩城家の家臣が、大幅に増員されているのである。この他の人物については、説経節をほぼ踏襲しながら、次のように人物の設定が変わる。
梅津院は、説経節では子がなく、清水観音の託宣によって厨子王を養子にするが、義太夫節では、『恋慕湊』『五人嬢』いずれにおいても息子があり、その息子は安寿の許嫁とされている。従って、岩城家と梅津家が姻戚関係で結ばれることになる。また山椒太夫の追手から厨子王を救う国分寺の聖は、『恋慕湊』では梅津院の息子と同一人物である。さらに、安寿と厨子王に自殺を思いとどまらせる伊勢の小萩は、『五人嬢』では岩城家の元家老の娘とされ、厨子王とは主従関係でつながる。
こうした設定の変化は、時に人物の人格をも逆転させる。山岡大夫は、説経節では岩城母子を人買いに売り飛ばす悪人だが、『五人嬢』では妻が岩城家の元家老の娘であることがわかると、一転して岩城家の忠臣となる。また安寿と厨子王を虐待し、安寿を責め殺す山椒太夫の息子三郎は、『恋慕湊』では安寿に恋心を抱き、安寿と夫婦の契りを結ぷと、厨子王の味方となって逃亡の手助けをする。さらに、『五人嬢』の山椒太夫は、梅津家の元家臣で、安寿が主家と姻戚関係にあることがわかると、娘を身代わりにして安寿を救う。姻戚関係と主従関係による原則が、ここにも作用していることがわかる。以上のように、説経節では個々の存在だった、梅津院、聖、小萩、山岡太夫、山椒太夫が、義太夫節では姻戚または主従関係によって、厨子王と結びついている。
また、物語の発端となる岩城正氏の失脚について、説経節は帝の勅勘によると簡潔に述べるだけであるが、正氏が平将門の孫であるという設定によって、そこには何らかの中央に対する地方勢力の反逆を暗示させるものがあった。しかし義太夫節では、将門の子孫という設定は消え、正氏の配流は、『恋慕湊』では勅使の行列に恭順を示さなかったためとされ、一見公家と武家の対立を予想させながら、この主題は深められることなく、悪役は岩城家の国家老が担う。そして、『五人嬢』では、正氏の弟が登場し、岩城家を乗っ取るため正氏を殺害するという、岩城家のお家騒動の物語となる(厨子王の復讐相手も、山椒太夫から叔父に変わる)。
悪役が山岡太夫、山椒太夫といった岩城家外部の人間から、家臣や当主の弟などの家中の人間に移行することにより、厨子王が戦う対象も内部に向けられる。これは、ある意味では物語の世界が狭くなったともいえる。義太夫節における登場人物間の緊密な関係と大勢への恭順、こうした変化の背景には、国家統一をなした徳川政権の統制が、庶民層にまで及んだことがあるだろう。
次に、説経節から義太夫節への変化を物語内容でみてみよう。図2の(イ)は、私が本研究の出発点で提示した「山椒太夫」の物語構造である(塩谷 1997、p.52)。〈HTML版では、図は省略。昭和女子大学女性文化研究所紀要 第21号(1998.1)参照のこと〉本図は、説経節「山椒太夫」の形成過程を各地の伝説から解明した、酒向伸行の研究(酒向 1992)を基に作成したものである。Aは安寿を主人公とする伝説で、母子の別離と再会をモチーフとする(安寿伝説)。Bは厨子王を主人公とする家再興のモチーフ(厨子王伝説)。Cは山椒太夫という長者が、下人を酷使した罪で没落するというモチーフである(長者伝説)。酒向は、安寿伝説と厨子王伝説が山椒太夫という長者伝説を媒介に合体し、厨子王を主人公に編集されたのが、説経節「山椒太夫」であるとする。この酒向説を、私は本図の(イ)のように図示した。説経節「山椒太夫」では、三つのモチーフの重なりはほぽ均等である。
これが(ロ)の義太夫節「山椒太夫」になると、登場人物に岩城家の家臣が増え、説経節にはなかったお家騒動のモチーフが加わり、代わりに説経節では重要とされた、母子の別離と再会のモチーフで再会場面が消える。つまり、義太夫節では、Bが進出して、Aが後退している。4.家族分析
説経節「山椒太夫」と義太夫節の「山椒太夫」では、物語内容にかなりの違いがあるが、家族分析は説経正本時と同じく、厨子王を中心に、親子、夫婦、きょうだい、主従、擬制的家族の関係別に行い、同じ場面がどう変化したかをみて行く。そして登場人物が大幅に増えた家臣については、主従関係の項で補うことにする。なお分析作品の底本は、『恋慕湊』については『紀海音全集』第二巻(海音研究会 1977)、『五人嬢』は『竹本座浄瑠璃集(一)』(平田 1988)に翻刻されたものを使用し、比較対象とする説経正本は、『説経正本集』第一巻(横山 1966)に翻刻された4種の正本のうちから、最も刊期が下る『三庄太輔』(正徳3年刊)を用いる。そして、以下底本からの引用箇所は、翻刻文献の頁数を記すものとする。
(1)親子関係
a.父(正氏)と息子(厨子王)
説経節では、物語の冒頭から父は不在であり、成長した厨子王が、自分は岩城家の惣領であることを知り、自力で家を再興する。これに対して義太夫では、正氏配流直後に家臣たちが、厨子王を後継者として家の存続をはかろうとする(『恋慕湊』)、あるいは正氏存命中に厨子王への家督相続を願い出ている(『五人嬢』)。また、説経節では、厨子王は家再興のために、将門の子孫であることを証明する系図を天皇に提出したが、『恋慕湊』では系図は家宝として存在しても、家再興に使われた形跡はなく、『五人嬢』では、系図は登場せずに、岩城家の再興は姻戚関係にある梅津院の宮廷工作によってなされる。厨子王が、岩城家の当主となることは自明であり、厨子王の決断と努力によらずとも、組織の力で家は存続して行く。父から息子への継承が定着し、家が制度化したといえよう。
では家の制度化の中で、父と息子の実際の関係はどうなったであろうか。厨子王と父の関係は、説経節においても母や姉との関係に比べると希薄であった。それでも、厨子王が母や姉と旅に出る動機は「ちゝをたづねて上るべし」(正徳本 p.46)であり、都に上って出世すると、まず父を迎えて感激の対面をした後、父の命を受けて母や姉の救出に向かっている。しかし、『恋慕湊』では父子の再会は描かれず、『五人嬢』では父との交流場面は全くない。父と息子の関係が制度で強化されながら、父と息子間の親愛はともなわず、説経節よりもむしろ後退している。
b.母(御台)と息子(厨子王)
母子の関係を、人買いにさらわれ、母子の別れとなる場面でみてみよう。人買いに騙されたことを知ると母は子どもたちに、「うきつらきめにあふとても。かならず身をまつとふせよ」(p.263)と声を掛け、続いて安寿には地蔵菩薩を、厨子王には系図を大切にせよと教える。この部分は説経節も義太夫節も同じであるが、この先はそのまま舟が遠ざかる説経節に対して、『恋慕湊』の母親は、「しゝても残る玉しゐは。かげ身にそふてまもるべし」(p.263)と、死霊となって子どもたちを守ろうと海に飛びこもうとする。子には「身をまつとふせよ」と言いながら、自分は子のために命を捨てようとしているのである。次の『五人嬢』では、舟が遠ざかると母親は「先立チ給ふ父上に。言分ケもなき我身上子共よさらば」(p.252)と言って海に飛び込もうとする。死のうとする理由が、子どものためから夫への義理に変わり、さらに母から子への教えは、「身をまつとふせよ」ではなく、「家の名字をあらはすな」(p.253)となる。
御台が入水自殺をはかるという設定は、実は説経節の時から既にある。ただし、説経節では子どもたちから離れた後、同行していたうわ竹が入水したのを見て、心細さから後を追おうとするのである。それは、自然な感情に基づく行動といえよう。しかし、義太夫節では、子への献身、夫への献身となり、それとともに家名の尊重が出てくるのである。
以上は母親の側の変化であるが、息子の側ではどうだろう。「安寿恋しやほうやれほう、厨子王恋しやほうやれほう」の鳥追唄で名高い、母と息子の再会場面をみてみよう。盲目の母が唄うこの唄は、説経節から義太夫節の作品にそのまま引継がれる。しかし、場面設定は大きく異なり、説経節では厨子王が自ら母を救出するが、『恋慕湊』では御台の救出は岩城家の家老父子が行い、『五人嬢』では元家老の娘婿(山岡太夫)が駆けつける。つまり御台の救出は、岩城家家臣の役目となる。そこで、親子再会の喜びは、「主従三世三人の。心の。内こそうれしけれ」(『恋慕湊』p.278)と主従再会の喜びとなり、息子に抱きついて感涙にむせんでいた母は、子の安否をたずねる前に「嬉しきはそなたの忠節」(『五人嬢』p.273)と家来をねぎらうことになる。母と息子の絆の強さをあらわす代表的な場面が、「御目にかゝるも主従のえんもつきぬ印なり」(『恋慕湊』p.277)と主従の絆を確認する場に変貌しているのである。
その間、厨子王は何をしていたのか。『恋慕湊』では家中を撹乱させた国家老を成敗し、『五人嬢』では、家来たちとともに家乗っ取りを謀った叔父の館に討ち入っている。つまり、岩城家当主となった厨子王がまず行ったことは、家中の秩序の回復である。親子関係に優先するものとして、「家」が出てきている。それは、親子の別れに際して、子どもの無事より「家名」を尊重する母の態度とも連動する。母と息子の関係は後退し、代わってクローズアップするのは主従関係といえよう。
なお説経節では、厨子王が所持していた地蔵(もしくは系図)によって、盲目の母の目が開く部分が重要なモチーフとなっていた。しかし義太夫の作品では、地蔵も系図もこの場には登場せず、御台の開眼はなされない。神仏の加護で、目が直るということがさほど重視されなくなったことであろう。中世の神仏の物語から、近世の人間の物語へという、物語の世界観の変化をみることが出来る。
c.父(正氏)と娘(安寿)
説経節においては、父と娘の交流を示すものは何もなかった。義太夫節においても、この設定は変わらない。
d.母(御台)と娘(安寿)
母と娘の関係は、説経節では母と息子の再会場面で、母が「なみだのひまよりも。あんじゅの姫はととひ給ふ」(p.91)と、安寿の安否をたずねる部分にうかがえる。しかし、母と息子の再会場面そのものが存在しない義太夫節の作品では、安寿を思う母の言葉は消える。義太夫節では、先の母と息子関係同様、娘との関係も後退する。
(2)夫婦関係
正氏(夫)と御台(妻)の関係は、説経節においては甚だ希薄であった。夫婦の交流場面はなく、御台は鳥追唄で、安寿と厨子王が恋しいといっても、「わがつま恋し」とは決していわない。
ところが義太夫節では、夫婦の絆が強まる。『恋慕湊』では、御台は旅の途上「つまの御めにかゝらんこと思えばかたき石の。こけの衣に身をそめて。此よのゑんはうすく共。みらいのゑんの結ばん」(p.259)と夫への思いを述べる。夫婦の縁が強調され、夫婦はあの世でも一緒という「夫婦は二世」の考え方がうかがわれる。さらに『五人嬢』では、先述の通り、子どもが人買いにさらわれる危機に際して、御台は夫への義理から死のうとしている。これらはいずれも、妻の念頭に夫の存在があることを示す(ただし正氏から御台への思いは、義太夫節のいずれの作品にも表われない)。
だが御台においても、夫のために出家を考えても、結局は「子は三がいのくびかせ」(『恋慕湊』 p.259)となって実現せず、夫への義理立ての死も、「親子は一世と申さぬか。今お果てなされてはいつの世にか逢うませふ」(『五人嬢』 p.252)と子に懇願されて思いとどまる。夫婦の絆が強まったとはいえ、夫婦関係と親子関係が対立した場合は、親子関係が優先するのである。そして、御台の鳥追唄には、ついに夫の名はあらわれない。
次に、岩城母子を騙して売りとばす、山岡太夫とその妻をみてみよう。説経節では、岩城母子を人買いに渡そうとする夫に、妻は人道的立場から反対し、夫の行動を阻止しようとする。つまり、夫婦間に意見の相違と対立がみられるのである。これに対して、義太夫節『五人嬢』の山岡太夫は(『恋慕湊』は、山岡夫婦は登場しない)、妻(宮城野)の諌めで改心し、一転して岩城母子の味方となる。改心のきっかけは、妻が岩城家家老の娘であることがわかったからで、「宮城野と夫婦になれば。我為にも主と崇めん」(p.257)と御台の救出に向かう。「夫婦は一体」との考え方がみられるが、それは夫婦愛のためではなく、夫婦揃って、主家への忠義に励むためである。夫婦の連帯の背後には、主従関係が見えかくれする。
また説経節にはなくて、義太夫節で新たに加わった、夫婦に準ずる関係として、安寿とその婚約者がある。安寿の婚約者が梅津院の息子であるという設定は、『恋慕湊』『五人嬢』に共通し、梅津院の息子は、『恋慕湊』では国分寺の僧侶となって厨子王の命を救い、『五人嬢』では岩城家存続のための宮廷工作を父に依頼する。だが、それは安寿への愛というより、安寿が「親のゆるせし二せのつま」(『恋慕湊』p.292)であって、岩城家と梅津家の婚儀として宮中で公認されている(『五人嬢』)ことの要素が大きいであろう。梅津の息子は、「正氏殿のこいむこよ」(『恋慕湊』 p.271)と、岩城家の縁で自らを名乗る。二人の関係は、家と家との連帯であり、姻戚関係の強化といえよう。
(3)きょうだい関係(安寿と厨子王)
説経節では、安寿は弟を山椒太夫のもとから逃がし、厨子王が都に上って出世する重要なきっかけを与える。安寿は「女に氏はなきぞとよ。おとゝなてとなんしとて、御みに氏があるぞかし」(p.82)と弟を逃がし、厨子王を逃亡させた罰で、山椒太夫に責め殺される。義太夫節にも、この設定はほぼ受け継がれるが、『恋慕湊』では、安寿は弟を逃がした後、さらに弟の安全を確保しようと、三郎と夫婦の契りを交わして、三郎を味方につけ、婚約者への義理から自害する。説経節の安寿が、ただで済まないことがわかっていても、山椒太夫のもとに帰ったのは、「身をまつとふせよ」との母の教えを守ったからと思われる。しかし義太夫節では、安寿は自らを顧みるゆとりもなく弟に献身している。『五人嬢』では、安寿は死なずに生きのびる。梅津家の家臣であった山椒太夫が、自分の娘を身代わりにしたからである。一見安寿の地位は上がったかにみえるが、構造はそのままに、圧力をより下の者へ転嫁したに過ぎない。なお、山椒太夫の行動の意味については、主従関係の項で触れる。
このように献身度を増した姉に対し、弟の側ではどうだろう。説経節では、厨子王は都に上り本領を安堵された時、帝に「奥州五十四郡を丹後一国に代えてほしい」と言う。丹後を望んだのは、姉を救出せんがためであり、ここでは姉の存在は、家の再興にも匹敵するとされている。しかし、義太夫では帝への奏上場面は消える。また、説経節では、厨子王は宮廷から退出すると丹後に駆けつけ、姉が殺されたことを知ると、遺髪と遺骨を頬に押し当て号泣するが、『恋慕湊』では厨子王の慟哭場面はなく、単に姉の追善供養をしたとするのみである。『五人嬢』では、安寿は生きており、娘を身代わりにした山椒太夫には、打首を免じて出家させたに過ぎない。
姉弟のきょうだい関係において、家を継ぐべき弟に姉が献身するという構造は、説経節の時点から既にある。しかし、義太夫節では、女性の家への献身度は高まりながら、その献身は当然視されてくるのである。
(4)主従関係
説経節では主従関係に該当するのは、うわ竹のみであった。そこで、まずうわ竹と主人の関係を、説経節と同じ場面で比較してみよう。説経節のうわ竹は、人買いにさらわれた時、売られた先でも主人を持つことは潔しとせず、「二てうの弓を、ひくまし」(p.75)との言葉を残して海に飛び込んで死ぬ。これが義太夫節になると、『恋慕湊』『五人嬢』いずれにおいても、主家の子どもを救おうと、人買いと闘って殺される。自らの価値観で選びとった死と、主人のために死ぬこととの違いがある。
他方の主人の側は、説経節においては、御台は「やれうわ竹よ、國もといつる其時は。おやとも兄弟とも、たのみをかけてありけるに。さきへゆくかやまてしはし。みつからもおなし道へ」(p.75)とうわ竹の後を追おうとする。従者を家族同様と考えていることがわかるが、義太夫節ではこの台詞は消え、先にみたように、御台は夫や子どものために死のうとする。主従が区別され、家臣の従属度が強まったといえよう。次に、義太夫節で新たに加わった家臣たちを含めて、主従関係を検討する。
義太夫節では、家臣たちは親子、夫婦、きょうだいで登場し、家族ぐるみで主家に仕える。家臣の側は、たとえ主家を放逐されても主従関係は継続するのであり(『五人嬢』における鬼柳一学、山椒太夫)、その親が死んでも子(一学の娘)にとって主家は「三代相伝のお主様」(『五人嬢』p.255)となる。また大和田利清と綱清のように、父と息子が別の主人に仕え、主人同士が対立した場合、息子は父の死を契機に、父親の主人の側につく。主人と家来の関係が固定され、親から子へと継続されることがわかる。
次に説経節においては、うわ竹は単独で岩城家に仕えていたが、義太夫節ではうわ竹の夫が登場し、岩城家の危機に対処する中心的役割を演ずる。うわ竹は夫の名代として行動するようになり(『恋慕湊』)、人買いにさらわれた主家の子どもたちを取り戻そうと海に飛び込む時には、「取返さねば自が夫に逢ふて言訳なし」(『五人嬢』p.254)という。妻は夫に従属したかたちで主家につながるようになるのである。また、きょうだい関係では、兄弟(大和田綱清と義清)、姉妹(宮城野と小萩)、腹違いの兄妹(右京進とかるも)とも、揃って父親の主人に仕える。以上のことから、家長を中心に、親子、夫婦、きょうだいが一丸となって主家へ奉公する姿がうかがえるが、主従関係は家族の連帯ばかりでなく、家族員間に対立や別離をひき起こすこともある。次にそのケースをみてみよう。
まず夫婦関係では、主家の妻子を救おうとして人買いに殺されるうわ竹は、夫とは死に別れとなるが、死に際して「魂塊もお主の守りと成りませふ」(『五人嬢』p.258)と主家への忠義心を強調しても、夫への言葉はのこさない。また、山岡夫婦の場合は、主家へ不忠をはたらいた夫の罪を引き受けて自害する妻は、「死ぬる忠義は仕やすい事」とし、夫には「ながらへてお主を見立テ末長く。仕にくい忠義を尽くして給べ」(p.258)と言う。両者とも、主家への忠義心が圧倒的であり、夫婦別離の悲しみは表現されていない。さらに、小萩と三郎夫婦の場合も、妻は主家に不忠義をした夫の責任をとって自害しようとするが、舅(山椒太夫)にとめられる。奥は、小萩(養女)に親子の縁を切るとし、「夫婦でなければ義理もなし」と言う。この言葉で小萩は救われ、夫に顧慮することなく(夫を見殺しにする)、主家への忠義に励む。夫婦間の情愛が薄いこともさりながら、夫婦関係が独立しておらず、家に包括されているため、親によっていとも簡単に断ち切られることがわかる。
きょうだいの場合は、大和田綱清と義清のように、仕える主人同士の争いに巻き込まれ、一時的に対立することはあっても、父の死を契機に綱清が忠義の対象を変える事により、対立を解消している。
しかし、親子の場合は様相が異なる。大和田利清は主人の後を追って、息子の眼前で切腹する。利清は、主家の存続を願って息子に後事を託し、自分が死んでも「涙一滴こぼさせますな」と言い、息子は「握りつめたる拳もふるひ。眼縁に針を貫く心地」(p.238)で、念仏を唱えながら父を介錯する。
親が先立つよりもさらに深刻なのは、主人のために、親が子を死なせる場合である。大和田綱清は息子を、山椒太夫は娘を、それぞれ主家の子どもたちの身代わりにしようとする。綱清は「同じ親でも武士は義埋」で、「対王殿に代れば武士の吉粋。戦場の討死にも優ったる倅が誉れ」と言いながら、「卑怯未練と呵はすれど悲しいも理」と長々と述懐し、「用もなき天井を打眺め。『ほこりが落ちて目が明れぬ』と」(p.290)涙する。また山椒太夫は、安寿の代わりに娘に焼鉄を当てることを、「梅津殿への御奉公」としながらも、瀕死の娘を抱いて「今一度物を言ふてくれ。親のせつない心底が此耳へ通ぜねぱ(中略)可愛や不便」(p.282)と大声上て泣き崩れる。忠義心が先行した夫婦と違い、親子の場合は、忠義によって親子関係が断ち切られることへの抵抗感が強く表現されている。
(5)擬制的家族
ここでは厨子王と家族契約を結ぶ、伊勢小萩(義兄弟)、国分寺の聖(命の親)、梅津院(養子親)が、義太夫節の作品において、どのように変化したかをみて行く。
まず、清水観音のお告により厨子王を養子にして、家再興を支援する梅津院は、義太夫節では、息子と安寿が許嫁であることによって、岩城家とは姻戚関係で結ばれる。従って、厨子王への支援は、親族であることから生ずる当然の義務となる。
次に、説経節では下人同士の同情心から、安寿と厨子王の姉がわりとなる小萩は、『恋慕湊』では、岩城家の息女と名乗った安寿に、「おどろき手をつかへ」(p.283)て臣下の礼をとり、『五人嬢』では、はじめから岩城家の元家老の娘と設定されている。つまり、対等な関係から主従関係へと移行する。
また、見ず知らずの厨子王を山椒大夫の追手から救う国分寺の聖は、『恋慕湊』では、安寿の婚約者と同一人物であるため、厨子王とは姻戚関係にある。さらに『五人嬢』では、厨子王を追手から救うのは聖ではなく、岩城家の家臣の役目となる。
以上のように、説経節では縁もゆかりもない者同士が出会って、親きょうだいの縁を結んでいたのが、義太夫節では擬制的家族は消滅し、姻戚関係か主従関係で結ばれた者同士となる。
5.考察
家族分析の結果を、説経節から義太夫節への変化でまとめてみよう。
まず親子関係では、父と庖、子の関係は家制度の中で強化するが、それが父と息子の親愛には結びつかず、さらに説経節においては強靭だった母と.息子および娘との関係も後退する。逆に希薄だった夫婦関係は、「夫婦は二世」とされて強まったかに見えるが、夫婦関係は家に包括されて自立しておらず、親子関係には優先しない。主従関係は、ともに家族員である関係から主従が区別され、主人への献身が従者に義務付けられる。主従の縁を「主従は三世」と表現するのは、説経節において既にみられたが、義太夫節では、さらに従者の側の主人への献身が「忠義・忠節」として倫埋化される。そして忠義・忠節は、従者の家族関係に優先するとされるが、夫婦・きょうだいの場合はともかく、親子関係が切断される場合には、強い抵抗感がみられた。
以上を、庶民層における家族観の変化として考察してみよう。説経節は、「乞食芸能として民衆の底辺」(荒木 1973 p.316)から発生したとされるが、近世に入って都市で人形芝居と組んで上演されるようになり、今日伝わるのはその正本である。義太夫節「山椒太夫」も、都市で上演された人形芝居の台本である。従って、庶民層といっても厳密にいえば、都市町民層における、近世初期から中期への家族観の変化となる。
説経節「山椒太夫」は、厨子王の家再興物語として構成されながらも、親子・きょうだい(姉弟)の情愛が中心テーマであった。しかし、義太夫節「山街大夫」では、母と息子の再会場面に象徴されるように、主従関係がクローズアップする。親子関係が後退したかに見えるが、それは厨子王の家族の場合であり、家臣の家族に焦点を当てると、そこには別の家族観が見える。
義太夫節が興隆した近世中期には、身分制度が定着しており、庶民が芝居を見る時、大名としての岩城家当主より、家臣の側に自己を重ねやすいであろう。義太夫節において、家臣が大幅に増員し、厨子王に代わって家臣たちが物語の主役となる理由は、この辺にあると思われる。そして義太夫節では、主従関係、即ち主人への忠義が最も強調されているが、子細に見れば、忠義とは、切腹する大和田利清が息子に主家の存続を託し、「家を守って思慮深き老の忠義ぞ頼もしき」(『五人嬢』p.237)とされるように、主人個人に対してではなく、主家への忠義である。そして、主家が断絶すれば、利清が「数多の家中民百姓の嘆き」(p.237)であるといっていることからもわかるように、家は家臣をも含む運命共同体である。つまり、義太夫節の家族観は、家を至上価値として構成される家族観といえるだろう。
義太夫節「山椒太夫」には、母と息子の再会場面がなく、今日の「山椒太夫」観からすればやや奇異に思われる。しかし当時の人々にとっては、それが「山椒大夫」であり、母と息子の再会に涙するのではなく、家を守る家臣たちの忠義心に拍手喝采を送ったのである。これは、武士の家意識が庶民層に浸透したことを物語るであろう。しかしながら、家が至上価値であっても、そのために親子関係が犠牲になることには、強い抵抗感を示している。こうした家族イデオロギーは、やがて修正される時がくるであろう。
説経節「山椒太夫」が、中世の家族観をあらわすとしたら、近世の家族観は、『山枡太夫恋慕湊』を過渡期として、『三荘太夫五人嬢』において完成する。だが、その34年後『三荘太夫五人嬢』は『由良湊千軒長者』として改作上演される。その改作のされ方に、近世後期への家族観の転換をみることが出来るのではないだろうか。注
(1)「山椒太夫」は口承文芸として出発したため、「さんせう太夫」「三庄太輔」など、漢字、平仮名とりまぜてさまざまな字が当てられるが、本稿では個別の作品を指す場合を除き、「山椒太夫」で統一する。
(2)庶民の定義は時代によってさまざまであるが、本研究では通史で使用できるように、支配者層ではないというくらいの意味で用いる。
(3)説経節の代表的な演目を五説経と呼んだことが、近世の文献にみえるが、演目は時期によって違いがある。しかし、「山椒太夫」は「苅萱」とともに、つねに五説経にあげられている(荒木 1973、p.317)。
(4)土佐節には『正氏出世始』と『女景清』(鳥居 1995)が、嘉太夫節には山本角太夫正本『山椒太夫』が現存する。
(5)1718年(享保3)大坂新町の傾城屋、茨木屋幸斎が奢侈を理由に入牢になった事件。
多くの随筆類に記録され、また際物として歌舞伎・浄瑠璃・浮世草子が競って取り上げた(大橋 1977)。
参考文献荒木繁・山本吉左右編注、1973、『説経節』(東洋文庫)平凡社。
伊原敏郎著、河竹繁俊・吉田瑛二編集校訂、1956-58、『歌舞伎年表』第一巻~第三巻、岩波書店。
大橋正叔、1977、「茨木屋幸斎一件と海音・近松」『近世文芸』27・28合併号。
海音研究会編、1977、「紀海音全集J第二巻、清文堂出版。
義太夫年表近世篇刊行会編纂、1979、『義太夫年表近世篇』第一巻、八木書店。
酒向伸行、1992、『山椒太夫伝説の研究』名著利行会。
塩谷千恵子、1997、「『山椒太夫』の成立―母娘の物語から姉弟の物語ヘ―」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第19号。
関山和夫、1989、「連夜説教『三荘太夫』考」『庶民仏教文化論』法蔵館。
堤 邦彦、1990、「仏教長篇説話の演劇利用をめぐって―『三奘太夫盛衰録』の場合」『読本研究』第四輯 上。
鳥居フミ子、1995、『近世芸能の発掘』勉誠社。
平田澄子校訂、1988、『竹本座浄瑠璃集〔一〕』(叢書江戸文庫9)、国書刊行会。
室木弥太郎、1995、「説経浄瑠璃の歴史」諏訪春雄・菅井幸雄編『近世の演劇』(講座日本の演劇4)勉誠社。
(しおやちえこ 女性文化研究所) 〈昭和女子大学女性文化研究所紀要 第21号(1998.1)に掲載〉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こうして研究してみると
中身の濃い家族関係は、この物語では、母と息子「説経節においては、父と娘の交流を示すものは何もなかった。義太夫節においても、この設定は変わらない。」
夫婦についても「正氏(夫)と御台(妻)の関係は、説経節においては甚だ希薄であった。夫婦の交流場面はなく、御台は鳥追唄で、安寿と厨子王が恋しいといっても、「わがつま恋し」とは決していわない。」とのことだ。
要するに厨子王の立場から母、姉との交流を描いているだけらしい
この自己愛的な物語。厨子王を抜きにした父、母、姉の関係はどうでもいいらしい。