公共と個人

自分にとってだけ意味が鮮明な
イメージとか言葉とか場面とか

その意味の重さは一種の錯誤なのかもしれない

それとも個人的な意味の世界を尊重してくれるものだろうか

公共の意味の世界と
個人の意味の世界は
個人の総和が公共である
(現在と過去の総和としてそうなる)
しかし一方で個人は公共の子供である
(言葉の歴史から言って、子供が既存文化を習得するしかない)
個人は時々公共を越境しそこに輝きを見たと思うのだが
それは錯誤なのか現実なのか