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美術の仕事をしている人と、どういう作品が好きかという話をしていた。
思いつくままにいくつか挙げると、
「いかにも本を読んで育った人という感じねえ」
と言った。
「なにかを感じるための回路が、文章ベースで開けているという感じ。うん、たとえば、『シベリアの王女』は子どもたちに人気があって、ワークシートにお話を書く子が多いの」
私は少し恥ずかしくなり、私、美術のことなんにも知らないから、小さい子と一緒なんだよと言った。
すると彼女はにこにこ笑って言う。
「ある意味ではね。でもそれっていいこと、とっても楽しいことだと思うな。美大を出たりした人間はね、たとえばジェームズ・タレルを観てもびっくりしないの、どういうことかわかる?」
わからない。あれを観てびっくりしない人がいるというのがぜんぜんわからない。
「あらかじめ知っているから。『これがそうか』とか『今度はこうきたか』と思う。それに大量に観るから、ひとつひとつは流してしまう。今日の展示ではあれとこれをとりあえず押さえておこう、とかね。そういう見方になるの」
それはあんまりおもしろくなさそうだ。なんだか義務っぽい。
「仕事の一部だもの、そりゃあ義務みたいにもなっちゃう。だからね、私たちはある意味で不幸なの。好きなことを仕事にしたことと引きかえに、小学生のような楽しみかたをうしなってしまう。プロにはプロの楽しみがあるけれど、少なくとも私は、ときどきそれにうんざりする」
それから彼女は少し黙って、ねえ文学評論とか読む?と訊く。読む習慣がない、と私は答える。
「それって、私にはいちばん好きなものを守る良い方法みたいに思える。仕事じゃなくっても、他人に与えられた文脈で消費する癖がついてしまうと、ちょっとうんざりすることがあると思うから」
私はそんなことちっとも考えていなかった。プロってたいへんだ。
「それでも、ずっと読んでいたら、ある種の批評眼がやしなわれてしまうことはない?好きなものについて話すのってすごく楽しいし」
わからないけれど、嗅覚みたいなものはできる、それに話すのはやっぱり楽しい、と私は答えた。
「だからじゃないかな、だから第二、第三の未開拓地を、私たちは求めるんじゃないかな、私は音楽を聴いて、あなたは美術館に行く。なんにも知らないで、なんのメタ的な視点も持たずに、単一のコンテンツをすっきりと消費するためにね」
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