くよくよしている人の話を聞いてみれば
心配を心のなかで拡大しているだけのことが多い
他人の立場になって客観的に見れば
だれにでも起こることだし命をとられるわけでもないし
ただ少しの間我慢すればいいだけということも多い
しかし本人にすればそうではない
本人は実際に大変に苦しいのである
そんな人も他人の事ならば冷静に客観的に判断できるのだから不思議だ
自分のことだけは別なのである
自分のことを考える時と他人のことを考えるときは
脳の別の回路を使うのではないかと思うくらいだが
もしそうであれば、自分のことでも他人のことのように客観的に考えなおして見ることが
不安を小さくするために良いことになる
しかし一方で、他人のことを考えるときも、人間は自分の体験を参照して判断している
「そのような自体になった場合、自分はどのような気持ちになったか」を参照して
他人の気持ちを推定している
だから他人の気持ちを考えるときに自分の気持を別に考えることもできないはずなのだろうと思うのだ
以上のような事情だとすれば、
自分の体験を他人に適用するときは客観的になれる、
自分の体験を自分に適用するときは不安が過剰になる場合があるということになるのだろうか
自分のことになると別というのは
そのとおりだ