毎日死と向き合う職業が作り出す職業的人格 テレビドラマ「ドストエフスキーの兄弟」

地域基幹病院で勤務医をしていたり、
在宅訪問医療をしていると、
人間の死は毎日のことである

救急での死と
慢性疾患の経過の末の死とでは様相が異なるのであるが
何れにしても、この種の職業に30年ほども関わっていれば、
資本主義社会のマスコミで語られることのない、
人間は死ぬものだということを前提とした職業的人格が成立するのではないか

その職業的エートスが資本主義社会の多数派になることはない
なぜなら資本主義エートスとは矛盾している
あくまでも特殊な一隅を占める程度である
それは小さく特殊であるが重要かもしれない

資本主義的思考で取り上げられるのは神の手とか新開発の医療材料とか新薬とか
そんなものである

毎日人間の死と向き合うという厳しい現場から考えると
資本主義的成長の幻想のためには
死はタブーである
死があるとしても、個人の市を超えて、家族に相続される財産と思想があるのだろうし、
むしろフォーカスをそちらに移動してしまえば、
一種の不死の幻想の中で、資本主義の永久運動が成立するのだろう

しかし現実にはそんなことはない
ロックフェラー財閥の息子たちならば資本主義の永久運動の中で奮戦していると言えなくもないが
通常の死はもっと小さくて切なくて
死んだらそれきりで
早いうちにすべての人がすべてを忘却するだろう

どんなに医学医療の術を尽くしても、100年生きる程度であって、それ以上ではない
そして100年生きたとしても、現役で影響力を維持するわけでもないし、自己成長を続けるわけでもない

長く見ても70歳程度、認知症を逃れられたとしてその程度だろう

その厳然たる現実の中で思考するのはかなり苦しい

生活がある
家族に対する責任があり、家のローンも重い
死は厳然として迫りつつある
救いなのは日常生活からは死が覆い尽くされていることである

日常生活にある死は、殺人ドラマでの、幕開けの部分にすぎない
死によって突然終わるドラマはあまりないだろう

主人公は死なないだろうとか
またはギャラの高い俳優は最後までいろいろと絡むのだろうと推定できる

しかし現実はそうではない
突然に死ぬのが人間である

しかも日本の場合は、死んでからあとの世界という、心理的ケアがほとんどない。
見方によっては、健全である。
別の見方をすると、野蛮である。
文化とは、死の意味、死後の意味を含む意味の体系である
それが欠落したままで、生きているのである

なんでもいいから宗教に頼れというのではない
宗教的真空のままで
平気なのだろうかと考える

そうすれば、素朴唯物論を軸として、死の意味も死後の意味も提示できるような、
素朴唯物論ver2.0を構想できるのではないだろうか

その地点では
素朴唯物論と諸宗教は矛盾しない

それは現代物理学の全体と、宗教的思考全体とが対立しないのと同じである

ーー
テレビドラマ「ドストエフスキーの兄弟」では
設定が現代で、三兄弟の末の弟は、原作では修道士、TV版では精神科医である。
多分、それでいいのだろうと思う。
納得できる設定ではないだろうか。

神も死後の世界も霊魂も
心理学に、ひいては脳科学に還元されると考える、科学主義的精神科医
キリストはキリストのままでいい、
蟻塚の蟻は蟻のままでいい
背景にある思想が何であろうと、
人々は自由など求めていない
自由を譲り渡して、命令される安心を求めている

むかし修道士がキリストを信じていると言いながら
信仰の実質は民衆を騙すためのこけおどしだと承知していたように

不動産屋は不動産売買の嘘を知り尽くしている
株屋も同じ
神主も同じ
修道士も同じ
精神科医も同じである