"1959年の砂川判決が、集団的自衛権を肯定しており、それが今回2015年の戦争法案パックの根拠だという。
砂川判決は米軍駐留は合憲であるというのが趣旨のようで、なるほど、集団的自衛権については言及していないようだ。砂川判決はついでに自衛隊は合憲であること、さらにもうひとつ、高度な政治的判断は違憲審査にはなじまないなどと言っているようだ。
憲法をどう読んでも、集団的自衛権は無理じゃないかと言われ続けて、内閣側は、砂川判決が認めている、さらに内閣法制局72年見解が根拠だという論理を持ち出した。そして二つとも論破されている。
おもしろいのは、今回の戦争法案パッケージをめぐる戦いが、砂川判決にたどり着いたことで、米軍駐留は違憲なのかどうかと、再度の問い直しも可能になり、そうなると、沖縄の戦いと直接にリンクしてしまうことだ。戦争法案パッケージは、アメリカに命令されたら何でもするしどこへでも行く自衛隊にするという話で、沖縄とは別の話だったのが、こうして砂川判決を結節点にして、一つの問題になってしまう可能性が出てきた。
それもこれも、長谷部氏が自公推薦の憲法学者として戦争法案は「違憲である」と明言してから、流れが変わったような気がする。
政界失楽園の船田氏はやはりどこか甘くできているようで、大失策を犯したものであるが、こうなったのも、現船田夫人が船田氏を失楽園に導いてくれたからで、日本国民と世界市民は船田夫人に大感謝である。
愛と正義は船田氏の失策を介して結合したのである。"
"また、沖縄県政と日本政府の類似を指摘できる。
日本政府は、米軍基地の負担を沖縄に押し付けることについて、沖縄県民を説得する必要はなかった。どんな犯罪が起きても、ヘリコプターが学校に墜落しても、選挙で選ばれた知事や沖縄選出国会議員を呼んで、米軍基地に賛成だ、辺野古移転しかないと言わせればいいだけである。選挙の公約が辺野古反対であったことなど関係ないようだ。沖縄県民を説得するよりも、知事と沖縄選出国会議員を懐柔するほうが容易で確実である。
アメリカ政府またはアメリカ戦争屋は、日本国民に何かを説明する必要はない。集団的自衛権が憲法に違反するかなど議論する必要もない。内閣を懐柔すればいいだけである。国民が反対しても、憲法違反だと騒いでも、形だけの、日本式民主主義を押し通してしまえばよい。
砂川判決がアメリカの政治的圧力の結果であり、立憲主義を冒涜する、日本国民にとって屈辱的なものであるのだが、そしてそのことが公式文書からも明らかになっているのだが、日本国民はあくまで穏やかである。現にあるものはそれでいいじゃないかというわけだ。(というシナリオをなぞってマスコミが国民を洗脳している。)
アメリカが日本を蹂躙する方法と、日本政府が沖縄を蹂躙する方法は全く相似である。
ついでながら、青森県六ケ所村の事情なども同じである。
こう考えると、日本国政府というものは、自分がされて嫌なことを沖縄にして平気でいるのだろうか。
それとも、アメリカにされたことを嫌とも思わず、沖縄の人は日本政府にされたことを嫌とも思っていないと思っているのだろうか。
あるいは、アメリカからされていることは嫌なことだけれども、沖縄にしていることは平気なのだろうか。
最後の可能性として、アメリカからされたことは平気だが、沖縄にしていることは申し訳ないと思っているのだろうか。
日本は依然として敗戦国なのだ。国連に敵国条項が残っている。日本は連合国にとって敵国であり、敗戦を経て独立しても、依然として潜在的敵国である。どの国も、他国を先制攻撃してはならないが、敵国と指定されている日本を先制攻撃することは許されている。潜在的に悪い奴だからだろう。
そんなことにも腹が立つのではあるが、いま日本政府が策動している戦争法案の内容、そしてその説明の仕方をみていると、政治的に、そして精神的に、でたらめな国であることは確かなようだ。"
"なぜMr.Abeが選ばれたのかときかれて、うまく説明できない。
どんな事情があるのか、一般国民には分からない。"