ひよこの眼
山田詠美
その男子生徒の目を見た時、なぜか懐かしい気持ちに包まれたのだが、それがいったいどのような記憶から端を発してい るのかが、私にはとっさに思い出せなかった。私は、その時、まだ中学三年生だったし、その年齢で懐かしがるべきことな ど、ひとつもないように思えたから、せつない感情が霧のように胸を覆い、心を湿らせた時、私は驚き、そして混乱した。彼、相沢幹生は、教壇に立ち、澄んだ瞳で、教室を見下ろしていた。私たちは、好奇心にあふれた様子で、その転校生を 見つめて、ひそひそと内緒話を続けていたが、彼は、まったく動じない様子で、担任の教師が自分を紹介するのを聞いてい た。「……というわけで、相沢は、きみたちと同じ場所で学ぶことになったわけだ。卒業までの短い間だが、どうか仲よくして あげてくれたまえ。じゃ相沢、きみからも何か挨拶があるだろう。」教師は促すように彼を見た。けれど、彼は、ただ立ち尽くしているだけだった。緊張してしまったのだろうかと、私は顔 を上げて彼の顔を見た。ところがそうではなかった。彼は、落ち着いていた。そして、その澄んだ瞳をまばたきもせずに大 きく見開いて何かを見ているようだった。何を見ていたのかは、まったくわからない。私には、彼が、空気中にある彼自身 にしか見えないものを見つめているように思えた。つまり、彼は、教師のことばなどまったく耳に入れていないのを明らか に周囲にわからせてしまうほどに、うわのそらだったのだ。教師は、顔を赤らめて、咳払いをした。「おい、相沢、おい、聞いているのか」彼は、ふと我に返ったように、怪訝な表情で、教師を見た。「挨拶ぐらいできんのか、おまえは。」彼は、小さく肩をすくめて、頭を下げた。私たちは、いっせいに吹き出した。同じ年齢にしては、妙に超然とした雰囲気 が、おかしかった。私たちのほとんどが、担任教師を嫌っていたので、彼のような態度は、私たちの気に入った。教室のい ちばん後ろに用意された席に、彼が歩いて行く時、私たちは、目配せを交わし合った。こうして、幹生は、私たちのクラス の一員になった。幹生は、自分から、他の生徒と積極的にことばを交わそうとはしなかったが、そのひょうひょうとした様子は、みんなの 気を引くのに十分だった。休み時間になると、何人かの男子生徒が彼のところに行き、彼を質問責めにした。そして、少し 離れた場所で、女子生徒が彼らの会話に耳を傾けた。みんな、季節外れの転校生の秘密を知りたがっていた。けれど、幹生 は、個人的な事情などは、うまいぐあいに、避けてことばを選びながら会話を交わしていたので、私たちは、彼の前の学校 でのことを少しばかり知るだけだった。「けっこう、すてきだよね、相沢くんて。」「大人っぽい気がする。」私と仲のよい女の子たちは、口々に、そんなことをささやいていた。転校生は、いつも見慣れた男子生徒たちより、どう しても格好よく見えるものだ。私はそんなふうに思った。私は、むしろ、彼の瞳に遭遇した時のあの懐かしい感情について 考えていた。初めて出会う人間に対して、なぜ、そんな思いが心をよぎるのかが不思議でならなかった。自分の内のつたな い記憶をたどってみるのだが、解決しなかった。まるで、解けない問題を一つ抱えているような気分になり、私は、自分自 身をもどかしく思った。その日以来、私は、少しばかりいらだちながら、毎日を送るようになった。私は、授業中、あるいは休み時間、つまり学 校にいる間は、ほとんど一日じゅう幹生を盗み見るようになった。もちろん、転校生の彼は、いつも、生徒たちの注目を集 めていたが、私が彼を見つめるのは好奇心からではなかった。私は、どうしても、心の中のもどかしさを取り去りたかった 。思い出そうとして、思い出せないものを抱えるほど、腹立たしいことはない。私は、時には、歯がみをしたいくらいの気 持ちで、幹生を見つめ続けた。彼は、いつもうわのそらのように見えた。うわのそらという言い方は正しくないかもしれない。彼の瞳は、いつも真剣に 何かを見つめているようだったから。けれど、その何かは実在するものではないようだった。空気の間に、何か、彼にとっ ての重大なものが浮かんでいるかのように、彼は一点を見つめているのだ。彼は、いったい何を見ているのだろう。私は、 時おり、彼の視線の方向に自分の焦点を合わせて見るのだが、もちろん、私の目には何も映らない。まばたきすらしない彼 の瞳には、いつも、うっすらと涙の膜が張っている。私は、それを見て、首をかしげずにはいられない。彼が、何かに関し て真剣になっているのは確かだと思うのだが。「ねえ、亜紀、ちょっと聞いてもいい?」親友の春子が、ある日、言いにくそうに私に尋ねた。「なあに?」「あのさ、これ、みんなが言ってるんだけど、あんた、相沢くんのこと好きになったんじゃない?」私は、驚いて、思わず自分の胸を指さした。「私が どうして」「だって、みんな、あんたがいつも相沢くんのこと、ぽおっと見てるって言ってるよ。」「そんな……。」私は、困りきった表情を浮かべたまま、なんと言ってよいのかわからずに呆然としていた。私が彼を見つめているのは事 実だが、決して、彼に心を引かれたとか、そういう甘い気分でいるのではないのだ。「そういうんじゃないよ。でも、そんなふうに見えるの?」「うん、見える。」「困ったな。」私は、その不本意なうわさを消し去るために、彼を見つめるのを当分やめることにした。すると、かえって私のしぐさは ぎこちなくなってしまい、自分でもわかるほどに、冷や汗をかいた。幹生に出会ってから、数週間のうちに、私は、自分が 彼を盗み見るということを習慣にしてしまったことに気がついた。授業中、幹生が指名されて立ち上がると、クラスじゅうの生徒たちは、いっせいに私を見るようになった。私には、彼ら のこらえている笑いの気配を背中で感じることができた。私は、彼らの思っていることが、まちがいであることを悟らせる ために平静を装おうとするのだが、そうしようとすればするほど、顔は赤く染まり、冷や汗が額に浮いた。私は泣きたい気 分だった。どうして、こんなことになってしまったのだろう。私は、ただ、解けない問題の答えを探るように、幹生を見て いただけだったのに。私は、自分があまりにも無防備であったことに舌打ちをしたい気分だった。受験を控えた生徒たちに とって、恋のうわさは、ちょうど手ごろな気分転換法だったのだ。それは、秋の学園祭についての話し合いが持たれた放課後のことだった。クラスの中から実行委員を男女各一名選出する ために、クラス委員が候補を募っていた。ある男子生徒が手を挙げて言った。「相沢と亜紀なんてどう?」いっせいに拍手が起こった。私は、だれかがその悪い冗談を口にしないように、ずっと下を向いていたのだが、やはり、 逃げようとすればするほど、彼らは私の気持ちを探し当ててしまうのだ。クラス委員は、少し困ったように言った。「亜紀はいいけど、相沢くんは転校して来たばかりだし、どうでしょう?」「でもさ、卒業までに、一個ぐらい思い出を作っといたほうがいいぜ。」「そう、そう、二人は、息もぴったり合ってるし。」みんな、げらげらと無責任な様子で笑っていた。どうして、こんなことになってしまったのかと、私は、うつむいて、涙 をこらえていた。何度も言うようだが、私は、ただ、幹生を見て、あの懐かしさの原因を探し出そうとしていただけなのだ 。その時、幹生が、立ち上がって言った。「おれ、やるよ。転校して来たばっかでいいんなら、引き受けます。」「やった」男子生徒たちは、口笛を吹いたり、拍手をしたりして、私と幹生をはやし立てた。女子生徒たちは、黙ったままの私に同 情して、彼らに反対しようとしていた。「ちょっと、あんたたちやめなよ。亜紀、かわいそうじゃん。」「なんで? だって、亜紀が、相沢のこと好きなのみんな、知ってるよ。」「そうだよ。おれら、手助けしてやってんだぜ。」「ちょっと、皆さん、静かに。多数決で決めたいと思います。賛成の人、手を挙げて。」クラス委員のことばに、男子生徒全員が手を挙げた。すると、最初は周囲をうかがっていた女子生徒も手を挙げ始めた。 春子を含めた私と仲のよい数人だけが、憮然とした表情で、机に肘を突いたままだった。「決まりだね、これで。」提案した男子生徒がうれしそうにそう言うのと同時に、幹生は立ち上がって言った。「もういいんでしょ。」そして、クラス委員があっけにとられる中、鞄を抱えて、私の席に来て、私を見下ろした。「帰ろう。きみんち吉祥寺でしょ。おれも中央線だから。」私は、驚きのあまり、彼を見上げているだけだった。幹生が直接、私に話しかけたのは初めてのことだったのだ。しかも 、みんなが見つめている中で。私は、うなずいて、のろのろと立ち上がって帰り支度を始めた。どうにでもなれという気分だった。どうせ、このまま、 私がすねていたとしても、うわさが消えることなどないのだ。私と幹生は、二人で教室を出た。すげえとか、やるなあとか 、男子生徒たちの感嘆の声が、私たちの背後から追いかけて来た。私と幹生は、しばらく無言で歩いていた。私は、男子生徒と連れだって歩くことなど初めてで、どぎまぎしていたが、彼 に自分の気持ちを伝えておかなくてはと思い、ようやく口を開いた。「あの、私、みんなが言うようなこと、思ってないの。どうして、あんなうわさが出たのかわからないけど……。」幹生は、ちらりと私を横目で見て笑った。「知ってるよ。でも、きみ、いつも、おれのこと見てたでしょう。」私は、自分の頬に血がのぼるのを感じた。「気づいてたの?」「うん。なんでかなって思ってた。」私は、ため息をついた。彼は、私が見つめていたことを知っていたのだ。そして、そこには、初恋とか、そのような甘い 気持ちが混じっていないことにも気づいていたのだ。私は、なんだか味方を得たような気分になり、気持ちがらくになるの を感じた。どうやら、彼は、物事を正確に見つめることのできる人のようなのだ。「実はねえ……。」私は、初めて彼の瞳に出会った時から、ずっと心の中に棲んでいる疑問について話し始めた。彼は、興味深そうに、私の 話を聞いていたが、首をかしげるばかりだった。「でも、おれ、東京に引っ越して来たばっかだし、きみと会ったことなんてないはずだよ。」「うん。それはわかってるんだけど、絶対に見覚えあるのよね、相沢くんの目に。」「ふうん。ま、いいか。」そう言ったきり、幹生は、再び黙って歩き続けた。私は、彼が、再び、あの目をしているのに気づいて、慌てた。いった い、どこでこの目に出会ったのだろう。「相沢くん。」「えっ?」彼はふと我に返って私を見た。「今、何を考えてたの?」「別に何も。」「うそ。絶対に何か考えてた。じゃなかったら、何かを見てた。」「たとえば?」私は困惑して、首を横に振った。彼は、笑って、私の肩をたたいた。「みんなが言うこと気にするなよな。たいしたことじゃないよ、あんなうわさ。」「相沢くんって、大人っぽいよね。なんだか、私たちよりも、ずっと先を行ってるみたい。きみのファン、けっこう多いよ 。女子たちが騒いでるの聞いたことあるもん。」幹生は、ほんの一瞬、唇をかんだ。「どうってことないよ。それも、全然たいしたことじゃないよ。」彼は、そう投げやりに言うと、再び口をつぐんでしまった。彼のその様子は、私などには及びもつかないことを隠し持っ ているように見えた。私は不意に悲しい気持ちになった。彼は、明らかに、私と必要以上に親しくなることを拒否している ように見えて、そのことに私は同情していたのだ。私を含めた些細な事柄に、とても興味を示すことなどできないほどに、 何かに対して心を砕いている彼の身の上を想像し、私はため息をつかずにはいられなかった。私たちの年齢の人間が許容で きる大きさ以上に、何かを背負っている彼は、そういう人に見えた。その日から、私たちは、つき合っている二人として、クラスじゅうの生徒たちに認められてしまった。私は、言い訳をし なかった。私はみんなが思っているように、幹生とつき合っているわけではなかったが、私が彼に関心を持ったのは確かだ ったし、文化祭の実行委員会のあとで、いつも、二人連れだって帰るのは周知のことになっていたのだ。私は、しだいに、 彼が気を許し始めているのを感じていた。あのうわのそらの様子が、私と一緒にいる時、影を潜めるようになった。彼は、 よく笑った。そして、そんな彼を見て、私も笑った。私は、彼の笑顔が好きだった。それは、あの懐かしい気分を、私に忘 れさせた。彼は、知り合ったばかりの男子生徒として、私の心に入り込んできた。そこには、楽しさ以外に何もなかった。それでも、私は知っていた。私とことばを交わしていない時、幹生がやはり、まばたきもせずに何かを見つめているのを 。私は、もう、その瞳を懐かしいとは思わなかった。そう思うには、私は、彼に好意を持ちすぎていた。その表情をする時 、彼が決して幸福ではないことを、私は知っていた。彼が、幸福ではないのだと思うことは、私の心を傷つけた。私は、そ の時、すでに、好きな男には、のんきな幸せを授けたいと願うほどに大人になっていた。私は、自分に訪れた初めての恋と いうものを実感していた。それは、今までに一度も味わったことのない感情だった。甘酸っぱいものを思い出した時に頬が くぼむ、あの時の感じに、それはよく似ていた。私は、彼を悲しい場所には置きたくないと思った。彼のことを心配してい るというより、そうなったら、自分自身がやるせないだろうと予想したからだった。私は、自分勝手にそんなことを思い、 そして、そんな自分を許していた。私が楽しい気分になるためには、彼もそうでなくてはならなかった。もちろん、彼には 、そんな自分の気持ちを伝えてはいなかった。親しくことばを交わすようになったとはいえ、彼は、相変わらず、自分の領 域を守り続けていて、そこに、私を入れることはなかった。私は、気のおけない友人として振る舞うしか術を持たなかった 。「ねえ、相沢くんってさ。ずいぶん、季節外れに転校して来たじゃない? お父さんの仕事の都合とか?」幹生は、私の質問に、一瞬、不意をつかれたようなうろたえた表情を見せたが、きわめて明るい調子で言った。「ううん。うちのお父ちゃん、病気で仕事できないもん。だから、おばあちゃんになんとかめんどう見てもらってる。」「お父さん、悪いの?」「まあね。借金取りから逃げて来たんだけどさ、もう、逃げる必要もないみたい。」「……お母さんは?」「さあ、おれがちっちゃかった時にどっか行っちゃったもん。男と逃げたらしいよ。おれって不幸だろ。」「そんな……。」私は、そういう不幸な家庭というものは、小説やテレビのドラマの中にしかないものだと思っていたので慌てた。「そんな顔するなよ。今のは、全部、うそだよ。冗談。今どき、そんな話、あるわけないだろ。」幹生は、そう言って、私の背中をたたいて吹き出した。私は、不安な気持ちに包まれたままだったが、彼の手が自分に触 れられているというだけで、気持ちがらくになってしまうのだった。目の前に、好きな人がいるというのは、なんと気分が 落ち着くものなのだろう。とりあえず、彼は、私の目の前で笑っている。それだけでいいのだ。だからこそ、よけいに怖く なる。私の目の届かない所で、彼が、もし、つらい目に会っていたらと考えるだけで、私の心には暗い影がさす。「亜紀は、おれのこと好きなの?」突然、幹生は、そんなことを尋ねて、私を慌てさせた。私は、体じゅうの熱が、自分の顔のほうに上がって行くような気 がして、今にも倒れそうだった。「どうして、そんなこと聞くのよ。」「そうかなって思ったから。おれのこと、いっつも見てるんだもの。おまえ変なんだよな。おれと、ちゃんと向かい合って 話ししてる時より、おれが、ひとりでぼんやりしてる時のほうが真剣に見つめてるだろ。あれ、どうして?」私は下を向いて目を固く閉じた。そして、言うべきことを彼に伝えなくてはと震える声で告白した。「好きだから。心配だから。」「何が心配なの?」「わかんない。私と話してる時は、私が相沢くんのこと笑わせてあげられるからいいけど、ひとりの時は、そうじゃないか ら。」幹生は、困った表情を浮かべて、黙っていた。私は、彼を不愉快にしてしまったのだろうかと不安になり、尋ねた。「怒った? よけいなお世話だった?」「まさか。」彼は、首を横に振った。「おれも、亜紀のこと、好きだな。」「ほんと? どうして」「どうしてって言われても困るけど、亜紀って変なやつだもん。おれの目が懐かしいって言ったりしてさ。今でも、そう思 う?」「思いたくない。」「どうして?」「なんだか怖いから。」幹生は、私を抱き寄せた。夕暮れだった。公園には、何組かの恋人たちがいたが、私は、自分と幹生がいちばん、せつな いと思った。私たちは、恋を語り合うには幼すぎるのだ。肩を寄せ合うこと以外にどうしてよいのかわからない。お互いに 好きだということしかわからない。「どんどん日が暮れるの早くなって行くね。」「うん。でも、空気が冷たくなるほど、夕方の空ってきれいなんだよね。私、寒くなっていくのって嫌いじゃないよ。幹生 は?」「おれは嫌いだった。なんか寂しいもん。でも、今はいいな。これからも平気かもな。おれ、寒がりだけど、吐く息が白く なっていくってことは、体の中があったかいってことだもんな。」私は、涙ぐみそうになった。私は、この先、どんなことがあっても、幹生に寂しい思いをさせたくないなあと思うのだっ た。彼の瞳には、相変わらず涙の膜が張っているように見える。けれど、それは、決してうわのそらの涙ではない。私がそ ばにいることが、彼の瞳をぬらしているに違いないのだ。「文化祭、がんばろうな。」「うん。最後だもん。終わったら本格的に受験勉強だしね。幹生は、どこ受けるの?」「ほんとのこと言うと、高校はあきらめてんだ。おれんち、貧乏だからさ。でも、なんか、大丈夫のような気がしてきた。 もしかしたら、なんとかなるかもしれない。働いたって行けるんだし。」私は、幹生の手に触れた。彼は、私の手を握り、そのまま自分のジャケットのポケットに押し込んだ。私たちは、顔を見 合わせて笑いだした。彼は、すまなそうに言った。「ちょっと、狭いけど……。」私は、力を込めて彼の手を握り返した。幸せだった。笑い続けていた。私が家に帰ると、母は夕食の支度をしながら、だだをこねている妹をなだめていた。私は、いつもより帰りが遅くなった のをとがめられはしないかと心配していたが、それどころではないようだった。「あ、お姉ちゃん、もう、ママ、困っちゃって。」「どうしたの?」妹は、待ってましたとばかりに、私のそばに駆け寄って来た。「お姉ちゃんからも、ママに頼んでよ。今日ね、新宿のデパートの前で、お店が出てて、うさぎ売ってたの。すっごいかわ いいんだよ。真利子、あれ、絶対欲しい」私はばかばかしくなって、着替えをすべく二階に上がろうとした。私の心の中は、うさぎどころではなかった。幹生の手 の感触が、甘い毒のように全身に回り、日常的なことが、すべてくだらないように思えていたのだ。「ねえ、お姉ちゃんからも、言ってよお。二人で、うさぎ飼おうよ。」妹は、半分泣き声で、訴えていた。母がたまりかねたように大声で、彼女をたしなめた。「いいかげんにしなさい だいぶ前にも、そうやって、無理やり、お祭りで、ひよこを買って来て死なせちゃったことあったじゃないの。あの時のひよこの顔、覚えてないの 世話もできずに、買って来て。ママは、もう、あんな思いするの嫌よ」私は思わずふり返って母の顔を見た。「どうしたの、お姉ちゃん。」私は何かを言わなくてはと口を開きかけたが、声が出なかった。「気分でも悪いの?」私は首を横に振るのが精いっぱいだった。私の心の中に詰まっていたものが、急激に溶けて流れていった。「ママ、あのひよこ……。」「そうよ。あなたも覚えてるでしょ。真利子ったら、ほんとうに自分勝手なんだから。あの死ぬ前のかわいそうなことった ら。」私は、さっきまで握られていた手を、手の平に爪が食い込むほど、握り締めた。それと同時に、私は、あの懐かしい瞳を 思い出した。そうだったのだ。私が、幹生の瞳に出会った時、私の記憶をうずかせたのは、あのひよこの目だったのだ。あの時、ひよこは、自分の死を予期しているかのように澄んだ瞳を見開いていた。ただ一点を見つめながら、私の手の上 で、静かに、その時を待っていた。私は、その様子を見て、なぜか恐怖を感じたのを覚えている。何もかも映しているよう で、何も見ていない目。ひよこが自分の死期について考えていたとは思えない。けれど、確かに、死は、ひよこをとらえて いた。母や妹は、悲しみで肩を落としていたけれども、私は、ひよこを見守り続けたのだ。まるで、憑かれたように、私は 、その小さな生き物が最後の力を振り絞り、目を見開いているのを見続けていた。ただ不思議だった。諦観ということばを 、そのころ、知るよしもなかったけれども、私は、ひよこの瞳を見つめながら、そのことを思っていたような気がする。「だって、ひよこは、最初っから、生きる気なんてなかったよ、ママ。うさぎは大丈夫だもん。真利子、絶対に、めんどう 見られるもん。」私は、妹の声で我に返り、二階に駆け上がった。心臓が激しく鳴っていた。私は、床に腰を下ろし、ひよこの瞳を頭から 消そうと首を振った。すると、今度は、幹生の瞳が、私をとらえて離さなくなった。懐かしいなんてうそだ。私は、最初か ら、彼のあの目に引かれていたのだ。そして、恐ろしさのあまりに、恋をしてしまったのだ。死を見つめている瞳。あの人 は予感しているのだ。でも、私に、いったい、何がしてあげられるのだろう。ひよこは、とうの昔に死んでしまったのだ。私は、その夜、たくさんの夢を見て、そのたびに、自分の呼び声で目を覚ました。ひよこの目の幻影は、朝まで、私を悩 ませて、私は一晩のうちに、恐怖を知り尽くしたかのように疲れ果てていた。母は、私が、風邪でも引いたのだろうと思い 、大事を取って、学校を休むように言った。私は、たいせつな授業があるからとうそをつき、重い足取りで、家を出た。私 は、恐ろしい予感を抱いていたので、休むわけにはいかなかったのだ。幹生は、その日から、学校に来なかった。父親が病気を苦に自殺を図り、その道連れにされたのだといううわさが、朝か ら、まことしやかにささやかれていた。けれど、みんな、私を気遣って、騒ぐこともできないのだった。私は、みんなが思 うほど、衝撃を受けていなかった。出会った時から、実は、そのことを知っていたような気すらしていたのだ。二、三日後に、担任教師の口から、そのことが伝えられた。私たちは黙祷をするように言われて、みんなで目を閉じた。 私だけが、その最中に、こっそりと目を開けていた。私は、この年齢にして、人間の思うとおりにいかないことがあるのを 知ってしまい、すっかり気落ちしていた。彼は、あの公園で、確かに生きようとしていたのに。そして、私の手をきちんと 握ったのに。あの人は、私が初めて出会った、人生に対して礼儀正しい人だったのに。そう思ったら、悔しくて、泣けてき た。だれも、何も言わなかった。私だって、なんと言ってよいのかわからなかった。死ぬなんて憎らしいことだ。私は、た だそう思って泣き続けていた。それから、何度か、私は偶然、ひよこの目に出会うことがあった。街の雑踏の中で。あるいは、電車の中で。そんな時、 私は、困ってしまうのだった。片手を握り締めながら、私は、こう尋ねてみたい衝動に駆られてしまい、慌てる。もしや、 あなたは、死というものを見つめているのではありませんか、と。
2019-06-14 23:22