縄文時代2

あなたは「縄文時代」にどんなイメージを持っていますか? 「狩猟採集で生活し、自然と共生していた」「貧富や身分の差がなかった」「日本文化の原点」……。でも、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘さんは主張する。いつ、なんのために「つくられた」のか。「縄文」の真の姿とはどんなものなのか。
 ■「貧しい」「自然と共生・平等」…世相映してイメージ180度変化
 ――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。
 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」
 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展段階説』に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化から農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになりました。『縄文』『弥生』の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味では政治的な理由で導入され、決められたんです」
 ――敗戦がきっかけで「つくられた」わけですか。
 「ただ、まだ『縄文時代』『弥生時代』ではなかった。変化が起きたのは1950年代後半です」
 「1947年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺跡の発掘調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見されました。弥生式文化の範囲も、西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきます。その段階で『弥生時代』という言葉が出てくるんです。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代へという道筋で、日本の歴史が語られるようになります」
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 ――なぜ「文化」から「時代」になったのでしょう。
 「50年代は、戦後の日本が講和条約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期です。それと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別に、日本独自の時代区分が求められたのだと思います」
 「『弥生時代』は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村という、非常にポジティブなイメージとともに広まりました。戦後まもない頃の日本人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見たんです。その一方で、裏表の関係にある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった」
 ――縄文はネガティブに見られていたわけですね。
 「当時の日本人にとって、縄文時代は『戦前』のようなものだったと思います。『克服されなくてはいけない時代』だったんです」
 「しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わります。縄文は貧しいどころか、豊かな時代だったという見方が出てくるんです」
 ――なぜ見方が百八十度変わったのですか。
 「国土の開発が盛んになり、大規模な発掘調査が数多く行われました。縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀(わん)などが続々と見つかり、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。一方で、弥生時代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかってきます。『縄文は遅れていた』『弥生は平和』というイメージが崩れてきたんです」
 「もう一つの要因は、70年代の世相です。高度成長も終わって、一息つく時期になる。公害などが社会問題化して、現代社会への懐疑も高まっていました。その中で、旧国鉄の旅行キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』がブームになります。社会がアメリカ化されてきた反動で、日本の原点とは何かを探すようになった」
 ――それがなぜ縄文とつながったのでしょうか。
 「『縄文ポピュリズム』の影響もあったと思います。その代表が芸術家の岡本太郎で、50年代に縄文土器を美として『発見』し、日本文化の基底にあるものとして縄文を新しく提示してみせた。岡本たちの『縄文ポピュリズム』が、70年代のオカルトブームや『ディスカバー・ジャパン』的な空気と結びついて、縄文ブームが起きます。呪術を行う一方で、工芸など高い文化を持ち、みんなが平等で、自然と共生していたユートピアとして、縄文が描かれるようになった」
 ――弥生に代わり、縄文が理想の社会にされたと。
 「ところが90年代になると、『縄文階層社会論』が盛んになります。青森県の三内丸山遺跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなかったはずだという見方が出てきた。平等社会というイメージに疑問符が投げかけられたんです。バブル崩壊後、格差や社会の階層化が問題になった時期で、縄文時代ですら階層があったという話に安易に乗る人も出てきてしまった」
 「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです」
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 ――実際の縄文の姿とはかなり違っているのですか。
 「研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文の枠組み自体が揺らいでいます。豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている」
 「縄文といっても地域によって大きく違います。中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山遺跡のような大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもない。同じ時期に様々な地域文化が併存している。縄文文化は『日本国の歴史』という視点からの総称にすぎません」
 ――とはいえ、「縄文時代」が存在したことに変わりはないのでは。
 「縄文時代や弥生時代という大きな枠組みを設定すること自体はいいんですが、時期や地域によってかなり違いがあることを前提にすべきです。しかし『縄文より弥生のほうが優れている』とする進歩史観や、『縄文こそロハスなユートピア』という考え方がいまだに根強くあるために、その多様性の価値を認めようとしない人が多い」
 ――「縄文幻想」から脱するには、何が必要ですか。
 「どんな時代も、過度に美化しないことです。縄文人は自然と共生していたと言われますが、集落をつくるために森を焼き払ってもいる。人口が全体で20万人と非常に少なかったので、多少自然を破壊しても再生されていたにすぎないとも考えられます」
 「縄文に限らず、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣をつけるのは、様々な意味で危険です。『縄文は遅れていた』『縄文はすばらしかった』と簡単に言ってしまうのではなく、多様な面をもっと知ってほしいですね」
2016-09-06 17:12