第108段:寸陰(すんいん)惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の、一銭を惜しむ心、切なり。刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。
されば、道人(どうにん)は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩(ぎょうぶ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて(わたりて)、一生を送る、尤も愚かなり。
謝霊運(しゃれいうん)は、法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮(びゃくれん)の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。
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僅かの時間(瞬間)を惜しむ者はいない。これは惜しむ必要がないと知っているのか、あるいは愚かで惜しむ必要があることを知らないのか。愚かで怠けている人のために言えば、一銭(わずかなカネ)は軽いが、これを積み重ねていけば、貧しき人を富む人にしてしまう。商人の一銭を惜しむ心は切実である。一瞬のことなど覚えていないと言っても、瞬間が時間を運び去る事をやめないならば、最期の死の瞬間はたちまちやってくるだろう。
道を求める仏教者(修行者)は、長い月日を通して勤めることを惜しむべきではない。ただ今の一念によって、空しく時間を過ごすことを惜しまなければならない。もし、人がやって来て、自分の命が明日には失われると宣告されたら、今日一日が終わるまで、何をあてにして、何をしようとするだろうか。我らが生きる『今日の日』とは何か、今日死んでしまうと宣告されたその貴重な時節に他ならないのだ。
一日のうちに、飲食・排便・睡眠・会話・移動など、やむを得ないやらなければいけない事柄で無駄にする時間は多いのだ。何とか無駄を逃れたとしても、余った時間に無駄な事をしたり、無駄な事を言ったり、無駄な事を考えるのであれば愚かだ。一日はたちまち終わってしまい、月は変わって、一生を終えることになるだろう。
中国六朝時代の詩人・謝霊運は、法華経の中国語訳を行ったが、常に風流を楽しむ気持ちを抱いていたので、東晋の僧侶・恵遠は、念仏修行で浄土に行こうとする白蓮社との交流を許さなかった。一瞬を惜しんで努力する心のない者は、死んでいるも同然である。
どうして光陰(時間)を惜しむのかというと、内面に深く思い悩むことがないようにして、外部には俗世の雑事がないようにするためである。そして、悪事をやめようとするものはやめて、善行を為そうとする者はなせということのためでもある。
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この段などは漢文調である。
また死のことを語っているが、兼好は医者のようなことをしていたのだろうか。人の死にもっとも立ち会う。あるいは当時は人の死は宗教者が立ち会っていたものか。
仕事として人の死に立ち会っている人の感じがする。