風は蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復還らず – 風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還
ーーー
漢詩の読み下し文もまた充分に日本語の詩文として
魅力的であるのはどうしてだろう
ひとつには日本語の骨格の中に漢文の骨が埋め込まれているからだろうと思うが
それにしても不思議である
親切に翻訳するよりずっと魅力的である
奇跡の一つだと思う
ーーー
紀元前233年、燕の太子である丹が人質になっていた秦から逃げ帰ってきた。丹は秦王政と子供の頃に親しくしていたが、大人になってから秦で出会うと政は丹を見下し、冷遇したので怒った丹は燕に逃げ帰り、復讐を考えた。秦をどうにかしたいと言う願いは、丹の私怨だけでもなく、当時圧倒的に秦が強勢であり、何か手を打たなければ燕も遠からず滅ぼされることが明らかであった。
政に対して刺客を送ることを考えた丹は田光に相談し、田光は荊軻を推挙した。丹が帰る時に「この事はご内密に」と言ったことで、田光は荊軻に話を告げた後で「太子に疑念を持たせたのは私の不徳の為すところだ」と自ら首をはねた。
刺客の依頼を受けた荊軻は、用心深い秦王に謁見するための策を考えた。その策とは、一つが、燕でも最も肥沃な土地である督亢(とくこう)を差し出すこと。もう一つが、もとは秦の将軍で、政が提案した軍の少数精鋭化に対し諫めたために政の怒りに触れ一族を処刑され、燕へ逃亡してきていた樊於期(はんおき)の首を差し出すこと。
これをすれば秦王も喜んで荊軻に会うだろうと丹に提案するが、丹は領地割譲はともかく、自分たちを頼って逃げてきた人間を殺すことはできないと断った。彼の苦悩をおもんばかった荊軻は直接、樊於期に会い「褒美のかかっているあなたの首を手土産に、私が秦王にうまく近づき殺すことができたならば、きっと無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期は復讐のためにこれを承知して自刎し、己の首を荊軻に与えた。
丹は暗殺に使うための鋭い匕首を天下に求め、遂に趙人・徐夫人の匕首を百金を出して手に入れた。この匕首に毒で焼きを入れさせ試し斬りを行ったところ、斬られて死なぬ者はいなかった。
紀元前227年、丹は刺客の相棒として秦舞陽(しん ぶよう)と言う者を荊軻に付けようとした。秦舞陽は13歳で人を殺し、壮士として有名であった。しかし荊軻は秦舞陽が頼りに成らぬ若造だということを見抜き、旧友[2]を呼びよせて待機していたが、丹が出発を急かしたため、荊軻が渋ると怖気づいたのではないかと疑うので、仕方なく秦舞陽を連れて出発することに決めた。
やがて出発の日が訪れる。丹をはじめ、事情を知る見送りの者は全て喪服とされる白装束を纏い、易水(えきすい、黄河の北を流れる)のほとりまで荊軻たちにつき従った。彼らは全て涙を流し、荊軻の親友の高漸離は筑を奏でて見送った。この時に荊軻が生存を期さない覚悟を詠んだ
「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず 風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還 」
という詩句は、史記の中で最も有名な場面の一つとして、人口に膾炙している。
これを聴いた士たちは、だれもが感情の昂ぶりの余りに凄まじい形相となった。そして荊軻は車に乗って去り、ついに後ろを振り向くことは無かった。
ーーー
荊軻は強大な国の王に対して、心意気一つで立ち向かった義士と言うことで人気は高い。司馬遷は『刺客列伝』の最後で、夏無且と付き合いのあった公孫季功や董仲舒からこの事件の話を聞いたと述べ、荊軻は暗殺は成功しなかったものの、その意思と志の高さにより名を残したのだ、と評価している。またかつて双六のことで騒動となった魯句践が、秦王暗殺事件の話を聞き「彼が刺剣の術を修めていなかったのは、なんとも惜しいことだ。そして、そのような人物を叱り飛ばすとは私も人を見る目が無かった。さぞや私を憎んでいただろう」と嘆いたエピソードも記している。また詩人の陶淵明は、『詠荊軻』という詩の中で「すでに荊軻は死んだがその思いは残っている」とうたっている。 一方、現代では荊軻はテロリストに過ぎないという論評もある。また一刺客でしかない荊軻に国運を託した丹に対する評価は低い。