採録
先月7日にスウェーデン王立科学アカデミーが2014年のノーベル物理学賞受賞者を発表し、2008年(小林、益川氏が物理学賞、下村氏が化学賞を受賞)と2010年(根岸・鈴木氏が化学賞を受賞)に続き、複数の「日本人」研究者(赤崎・天野氏)がノーベル賞に輝いたのは、読者諸兄の記憶に新しいと思う。当然のことながら、長らく停滞気味の日本にとって明るい話題であるとマスコミと政治家が飛び付き、紙面を賑わせたことも記憶に新しいことと思う。
そして、ここで、また、「日本人何人がノーベル賞受賞」でひと悶着起こしたこともご記憶と思う。2008年の受賞で当時アメリカ国籍であった南部氏を日本人といって、「日本人4人がノーベル賞受賞(物理学賞3人と化学賞1人)」と日本のマスコミが大騒ぎをしたところ、アメリカから、「3人の日本人と1人のアメリカ人で、4人の日本人は違うだろう」とクレームをつけられたことを覚えておられる方も多いのではないか。
この轍を今回もまた踏んだのが、青色発光ダイオードをめぐって日亜化学工業(以下日亜化学)と裁判で争った現カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の中村修二氏の扱いである。中村氏は現在アメリカの市民権を取得しているので、日本の国籍法に基づき、日本国籍はなく、アメリカ国籍を有しており、国際的な見解では、当然、日本人ではない。当然、アメリカを始め、海外の報道では、2人の日本人と1人のアメリカ人である。
にもかかわらず、日本のマスコミは、中村氏も日本人として、3人の日本人が受賞と言って、同じことを繰り返している。グローバル化のご時世に、なぜ、「米国を拠点として研究をしている研究者の国籍をまず確認する」ことをしないという、このような単純なミスを繰り返すのか不思議である。それも、南部氏の時とは違い、中村氏が1999年末に日亜化学を退社し、渡米した2000年にアメリカで日亜化学が中村氏を、2001年に中村氏が日本で日亜化学を提訴し、米国と日本の両国で、裁判で争い、事実上中村氏が勝訴した(アメリカでは日亜化学の訴えは棄却、日本では地裁で勝訴、高裁は和解勧告の元、日亜化学が8億4千万円を支払うことで和解)にもかかわらず、中村氏が日本に戻ることなく米国に留まったこと、中村氏が日本(企業)に対して厳しい発言が多いことはマスコミとしては周知の事実ではなかっただろうか。
加えて、今回のノーベル物理学賞のプレスリリースに、中村氏はAmerican citizenであると明記されているにもかかわらず、である。(日本のネット上で、American citizenをめぐる解釈で見解が分かれたなどという記事もあるが、英語のAmerican citizen(アメリカ市民)はresident(居住者)ではないので、帰化(naturalize)する必要があり、アメリカ国籍を有することを意味すると解釈するのが普通であろう。また、2重国籍を疑う者もいたが、これは、中村氏のケースに関しての日本の国籍法の適用を知らない単なる無知か不勉強である。)これは、日本のマスコミが学習能力の極めて低い人々の集団だからであろうか。そうではあるまい。
ナショナリズム(安倍首相は愛国心というのでしょうが)を煽りたい国家=政治家とそれに媚びる愚かなマスコミという構図で表層的にかたづけることは簡単なのだが、「日本人の」に関しては、それほど単純なものではなさそうである。話が脇道に逸れるが、この単純な構図は、それはそれで、今の日本を象徴してはいる。というのは、前編でも書いたが、「見てみて、褒めて」症候群の強い日本社会であるが、失われた20年にわたって、坂を転げるように褒めてもらえなくなっているので、最近は自分で自分を褒めるようになってきていると言えないか。
ガイジンを連れてきて、日本はこんな素晴らしい国です、とやる番組が最近目に着くのは筆者だけであろうか。「日本(人)の」がしめる割合を都合よく使って、「日本(人)の」にして嵩を上げて日本を褒めるという方式がノーベル賞にも適用されたのかもしれない。この都合よく使うという意味で、日本版ウィキペディアの「日本人のノーベル賞受賞者」の項は面白い。「受賞時点で日本国籍の受賞者」は良いとして、その次の「日本国籍時の研究成果で受賞した元日本国籍の受賞者」と「日本にゆかりのある受賞者」は何とか「日本(人)の」につなげる為の苦心の策であろうか。
話を戻すが、国籍を無視して日本人にしてしまう、その背後には、日本特有の「日本人の」という暗黙の定義(厳密ではないので括り)があるのであろう。今回の件で、中村氏がアメリカ国籍であることが判明した後になっても、日本の新聞が、まだ、執拗に「日本の(流石に「日本人の」とは言えなかったらしく)中村氏」といっていたこと(「日本人の」はおかしいと海外から指摘されると「日本の」にすり替えるなど、なかなかしぶとく、また、反省する気も毛頭ないようだ)が示すように、明らかに「日本人の」の定義は、国籍ではないので、世界の標準からはずれている。
言い換えれば、国籍でもなく、DNA(DNA的には日本人は純粋種ではなく雑種であると言われる。朝の東京駅から出てくる人々の顔の違いを見れば、ソウル(朝鮮族が多数)とも北京(漢族が多数)とも違うのは明白であろう)でもない、流暢な日本語を話すでもない、これでは、「日本人の」を明確に定義することは難しいはずである。明確に日本人を定義できないので、日本人を親に持つという定義も機能しないはずである。感覚的に、日本人とは、まず、「みため(皮膚が黄色く髪が黒い。しかし、最近は美白もあり、髪も染めるが)」、そして「流暢な日本語をしゃべる」、そして「名前が日本人らしい」によるのかもしれない。国民栄誉賞に輝いた王貞治氏は、国籍上は台湾(中華民国)籍であり、日本国籍ではないので、国際的には間違いなく「日本人」とは認識されてはいないのではないだろうか。
今回の件で露呈した「彼・彼女は日本人であるはずで、彼・彼女自身も当然そう思っているに違いない」とする推定日本人という相手の意思を尊重しない感度の低さは、この日本ですら移民の議論をする位である昨今、グローバル化し、アイデンティティと国籍が同一であるとする民族国家という幻想が急速に衰えるなかで、王選手のケースは通用したから、今でも通用すると思うべきではない。前述した「自褒め」のケースもこの推定日本人を前提としている。しかし、この推定日本人は機能しないと心得るべきであろう。
今回のブラジルでのワールドカップで得点記録を塗り替えたドイツ代表のクローゼ選手はドイツ国籍であるが、ポーランド人であり、自宅では子供にポーランド語を使っていると聞いたことがある。国籍はドイツであるが、クローゼ選手にとってはたして、アイデンティティはドイツ人であろうか、ポーランド人であろうか。それは、本人の決めることであり、他人の決めることではないのではないか。つまり、このグローバル化の時代に、国籍にかかわらず、かつ本人の意思にかかわらず、勝手に「日本人の」(推定日本人)にしてしまうのはおかしくはないか。何人(なにびと)であるか(アイデンティティ)は個人の意思によるべきで、国家や御用マスコミの決めることではない。外部者が言える事実は国籍のみであるべきである。
「日本人の」を語る時に二つの考え方がある。一つは心理的本質主義、もうひとつは構築主義である。心理的本質主義とは、「日本人らしさ」に「和」や「勤勉性」を求めたりして、「~らしさ、~性」に変わらぬ性質を求めていく考え方である。これは、現実から離れて純化していく(かくあるべきと、一つのモデルに収斂する)日本人という「モノ」という観点であるので、自ずと排他的傾向を持つ。
政治家が煽るナショナリズムは、典型的な心理的本質主義である。一方、構築主義とは、「日本人らしさ」というのは変わることなく固定的に存在する本質的なものではなく、その時代の、社会・政治・経済的関係などによって形成され、変容していくとする考え方である。これは、各人の経験に基づいて持続的に変容する日本人である「こと」という観点であるので、柔軟であり、百人百様の日本人である「こと」がある。日本人という「モノ」であるとは、日本人であるかは他者によって決められることを意味するが、日本人である「こと」であるとは、日本人であるかは個人=自分で決めることを意味する。
この自己決定である日本人である「こと」という観点が欠落する推定日本人というものがまかり通るということは、それは裏を返せば、帰化して日本人になった容姿的に明白な外国人は、パスポートは日本政府発行のものでも未来永劫日本人ではないということを意味しないであろうか。つまり、日本国籍のガイジンである。グローバル化や移民を積極的に議論し、優秀な外国人に来てほしいとのたまう日本の政治家も滑稽であるが、グローバル化の中で心理的本質主義を志向することは推定日本人の領域を一層狭めていくこととなり、グローバル化の重要性を認識し始めた日本人自身も自家撞着に陥るのではないか。これでは日本がグロール化に適応するのはほとんど望み薄である。日本国籍のインド人がノーベル賞をとったら、日本のマスコミと政治家はどのように反応するか、非常に興味のわくところである。
変化の程度とスピードが加速的にたかまるグローバル化において、内部と外部から変化の圧力を受ける中では、心理的本質主義と構築主義のどちらが妥当かは明白ではないだろうか。増加する二重国籍を有することも多いハーフのことをお考え頂ければ、言わんとしていることをご理解いただけるのではないだろうか。国を超えた相互結合と相互依存を強化するグローバル化が進むことによる取引コストの大幅な低減で国家の力が衰退する中、政治家がよりどころにするのは、心理的本質主義であるが、世界は構築主義に向かっているのではないか。しかし、「世界の度はずれで日本のグローバル化」と叫ぶ日本のマスコミと政治家に構築主義を認めさせるのは至難の技である。
ここで話を終えたいところである。しかし、話はここで終わらないところが、日本のすごさでもある。ノーベル賞受賞時には明らかに日本とは距離を置いていたように見えた中村氏、つまり、日本と決別したかと思っていた中村氏が文化勲章の受章で一変する。ご本人の問題なのでとやかく言うことはないのだが、外野から見ている筆者としては、中村氏が叙勲を受諾したことが今一歩しっくりこなかった。
中村氏は11月3日の叙勲後のインタビューで、「午前中に文化勲章をいただきました。天皇陛下から直接いただいて、非常に感動しました。日本人として最高に光栄です」と述べている。ご本人が「日本人」といっているので、マスコミも政治家も大手を振って中村氏を「日本人」と呼べるのであるが、この態度の急変が意味するのが「日本人の」のもつ不思議な力なのであろう。推定日本人は、しっかり機能してしまったのである。しかし、前述したように、これが危うさでもあるのではあるが。
最後に現実的なお話しを少ししたい。中村氏が叙勲後に安倍首相を表敬訪問した際に、安倍首相が「地方(徳島のこと)から世界へ、すばらしい」と述べたそうである。これは、テニスの錦識選手が優勝こそならなかったが、全米テニスオープンの決勝に進出したことで、マスコミが「日本のテニスが世界に認められた」とまことしやかにはやし立てていたのと同じである。
ご存じのように中村氏は経緯があって2000年以降研究の拠点はアメリカであり、錦織選手は12歳で渡米したのであり、日本人ではあるが、日本のテニスというのは憚られないか。また、ノーベル賞受賞者をみても、古くは物理学賞の江崎氏、医学生理学賞の利根川氏、化学賞を受賞した下村氏、根岸氏、物理学賞の南部氏などかなりのノーベル賞受賞者の研究の拠点は日本でないという事実がある。音楽であれば、幼少のときにジュリーアド音楽院に行ったバイオリンの五嶋みどり、バークリー音楽院でアーマッド・ジャマルに見出されたジャズピアニストの上原ひろみなど、なぜ日本で研究や育成や活躍ができないかを考えるべきであろう。
これは、むしろアメリカの強さを強調すべきことかもしれないことは重々承知である。そして、これは、個人としては結構なことである。個人の成長と活躍の場はグローバルであって良い。しかし、一国の総理大臣としては、このような異能と言われる人々を許容し、育てる風土がないことを反省し、真剣に悩むべきではなかろうか。生まれが日本というだけで喜こび、それを盛って日本の強さと言って、ナショナリズムを煽って「日本を取り戻す」と言っている場合ではないのではないか。
すくなくとも、道徳教育を義務化し、評価するようでは、異能な人々を生み出すことの前提である、疑念を持って自ら「考える」人材は生まれないであろう。読者諸兄はどうお考えになるであろうか。
2015-01-06 19:18