採録
今回の唐突な衆議院解散は、自民党にしてみれば、戦略的には正しいと言え、職業政治家としては、選挙の大義などは問題ではない。如何に野党が烏合の衆とはいえ、現状のアベノミクスという丁半博打を考えると二年後の選挙で自民党がその議席を大幅に減らす可能性は大いにあり得るからである。しかし、法的には衆議院の解散に関しては問題があると言える。解散権は内閣総理大臣の専権事項のように言われるが、内閣不信任案可決などの前提条件なしに、総理大臣による恣意的な解散を無条件に認めることは、日本は議院内閣制をとるとは言え、議会制民主主義の根幹である三権分立の「抑制と均衡」を否定することに他ならないためである。この解散権に関しては、憲法第7条と第69条の解釈を持って議論されるが、そもそも、内閣総理大臣の専権事項として恣意的な衆議院の解散を認めることは、内閣総理大臣が国会に優越する存在となり、「国会は国権の最高機関である」と定める憲法第41条に抵触するのではないか。
かの大野伴睦ではないが、サルは木から落ちてもサルであるが、政治家は落ちればただの人(馬鹿という人もいるが)である。政治家は、「当選して何ぼ」なのである。当選確率の高い時に選挙をし、4年間の任期を確保するのは(いまどきの低級な)職業政治家としては当然であろう。特に、権益と一体になっている多くの自民党政治家(故に二世三世議員が多く、増殖している)にとって当選するかしないかは死活問題である。そして、国家権力の実質は行政官僚に握られているので、彼らと一緒になり、国のお金(国民の税金なのだが、自分たちのお金と思っているようで、国民の税金という意識は希薄そうである。そうでなければ、これだけ無責任に国の借金は増やせない)を、機動的財政出動などと称してじゃぶじゃぶと使うのが政治家の仕事である。
多くの識者が指摘するように、今回の選挙に争点はない。消費税の延期については各党が賛成であるし、アベノミクスなどというポピュリズムの権化のような表現はしないまでも、グローバル化した経済を知らない共産党を除いては、各党の経済政策の主張は、根拠のない経済成長を前提にする、お題目とも言える十年一日の通り一遍の実現性の乏しい政策しか提示できず、博打であるアベノミクスに代わる抜本的な経済政策の路線を示せていない。野党はまさしく、烏合の衆である。一方、円安と株高とインフレという綱渡りのどこで落ちる、いや、博打の結果のでていないアベノミクスの評価などしても意味はない。馬券を買って、レースの途中で(自民党という馬の)馬券を買いかえる人などはいない。これでは、有権者にとって、何を判断基準として選ぶのかは難しい。端的に言えば、自民党に代わって投票する政党や候補者がいないということである。自民党や公明党や共産党のように、強固と言える支持基盤を持つ政党の支持者と社会保障制度の既得権益者といえる高齢者と国からの補助金頼りの地方の有権者以外の有権者(つまり、若者、特に、都市部の若者と壮年)にとっては、選択肢のない中、わざわざ選挙に行く意味がないといえよう。故に大義がなく、争点のない選挙といわれるのも当然であろう。
この状況に照らしあわせれば、各新聞の事前調査(マスコミの隠れた意図もあるであろうが)も示すように、低投票率という批判があっても、今であれば、自民党が300議席以上獲得するといわれ、自民党が議席を大幅に減らす可能性は極めて低い。今回の選挙は、自民党が民意を得たという口実のもとで、暴走(地方へのばらまき補正予算と古典的な右傾化)の切符と禊(小渕優子に代表される政治家の金の問題と、どうせ最高裁は違憲判決をだしても選挙を無効にはしないという確信による一票の格差是正の軽視)を得る選挙となるのであろう。このような選挙のために、我々国民の税金が、700億円近くも使われるのである。
そもそも、まともな民主主義制度では、投票したい候補者がいないというアホな状況を想定していない。故に、選択肢がない中で投票をしなければならない今の日本の状況は、想定外である。しかし、政治家は、候補者に選択肢がないのは、政治家の責任ではないというであろう。投票率がどうであれ、得票率がどうであれ、民主主義という手法に基づいているので、選挙に勝利して、多くの国民の負託を得たと言ってなにが悪いと言うであろう。これこそ、安倍自民党の目論んでいるところである。繰り返すが、これは、自民党としては戦略的に正しく、戦略のない野党の無能さをとやかく言ってもしょうがないのである。そもそも、民主主義は、デモクラシーであり、主義ではなく、政治の一形態でしかない。このデモクラシーを、民主主義と訳したことにより、政治制度としての民主主義と社会思想としての民主主義を混同してしまったことが、日本の不幸ではあるまいか。
現在の状況のもとでは、今回の投票率が低いことは想像に難くない。フジテレビ系のFNNによる最新の世論調査によると、今回の衆議院選挙に「関心がある」と答えた人は、62.2%であり、戦後最低の投票率(59.3%)であった2012年の衆議院選挙の時の79.9%を大きく下回っている。故に与党も野党も、こぞって、若者に投票を呼びかけているのである。なんと、ネット上では、自分の考えとマッチする政党を探してくれるアプリも提供されている。
いずれにしても、民主主義(どちらの意味の民主主義であっても)が個人の選択の自由を得るための手段であるとするならば、投票する選択肢のない有権者も、その意思は明確に示すべきである。好むと好まざると最悪の中の最善の選択と言われる政治制度としての民主主義という多数決ゲームに参加をしているのであるから、そのゲームのルールを無視するわけにはいかない。
その意味で、投票に行かない棄権という選択も、低投票率という数値を通しての有権者の抗議であることは否定しない。しかし、これは、選挙権という国民の権利の放棄であることは当然として、民主主義という政治制度を盾に取る自民党の政治家からすれば、投票しない有権者が悪いのであり、低投票率であろうが、低絶対得票率であろうが、相対的に多数の議席を獲得した自民党が正義であるということであり、棄権した有権者の思いは無駄になる。つまり、棄権はあまり効果的な手段ではない。
次の手段は、選挙に行き、白票を投じることである。選挙結果では白票は無効票(ここにすでに選挙を管理する側の、候補者がすべてでありそれ以外の選択肢はあり得ないという意図が明白に見える)として整理される。無効票の中の白票の数値も公表されるので(http://www.soumu.go.jp/main_content/000153570.pdfの20ページを参照)、白票を投じる意味がないわけではない。棄権よりも、より能動的な意思表明、不満・不服の表明の手段である。有権者が積極的に白票を投じれば、それなりの影響はあるのだが、公的な集計結果の発表は、後日であり、政治家も政治家の息のかかるマスコミもどこまで真剣に取り上げるかは定かではない。政治家が、単なる無効票として無視するのは、容易に予想がつく。
そこで、昨年のハフィントンポストの連載で論じた「白戸家のお父さん」再びである。
今回の衆議院選挙で端的に示されるように、既存の政党政治が機能していない状況にあり、投票をしたい政党のみならず、候補者もいないという状況が、都市部かつ若年と壮年の選挙民の偽らざる心境ではないか。つまり、投票したい政党や候補者ではなく、より投票したくない政党や候補者を避けると言う、まさに、積極的支持ではなく、最悪を避けたいという消極的な支持でしかない政党や候補者に投票をするのである。そもそも、投票したくもない政党と候補者の中から選ばなければならない選挙とは正しい制度であろうか。
硬い支持基盤が前提の政党政治の時代であるならいざしらず、無党派層が多数を占める現状において、今の選挙のあり方は、民主主義制度の皮をかぶってはいるが、選挙民の意思を正確に反映する仕組みでは、最早ないのではないか。選挙民の立場に立てば、現在の選挙制度は、現実に合っていないが、その意思を示す方法がないのである。あるとすれば、選挙を棄権するくらいであろう。
これでは、投票率が上がらないのは無理もない。そもそも、投票は国民の権利であるのだから、政治家と役人のように、棄権した有権者を権利である選挙権を行使しない意識の低い国民とみなすのではなく、投票率が一定の率、例えば6割を割ったら、選挙を無効とし、投票率が上がるまで、再選挙を行うべきであろう。現実からずれているのは、政治家と役人なのである。この意味で、現在の有効得票数(衆参の比例代表には適用されない)をもとにした法定得票数による再選挙は、投票率とは関係がないという点で、はなはだおかしい。
ここで、荒唐無稽な一案と知りつつ、「白戸家のお父さん」を再度提示したい。以前の論考(連載『日本人は、なぜ議論できないのか』第6回)では、無党派時代における選挙での積極的な白票の意味合いを高く評価すべきであるとして、白票を有効にする仕組みを提示した。具体的には、『「白戸家のお父さん」を小選挙区・選挙区と比例代表に立候補させ、「白戸家のお父さん」への投票は、有効な白票とする。もし、「白戸家のお父さん」が当選した場合、その議席は空席となる。複数人数区であれば、1人分の議席が空席になってもあまり問題はなかろう。もし、「白戸家のお父さん」がトップ当選した場合は、その小選挙区・選挙区での落選者は、一定期間,その小選挙区・選挙区からの立候補を停止(候補者への不信任)すれば良いかもしれない。有権者からみれば、議席が一つ減るわけであり、有権者も痛みを伴うはずであるので、「白戸家のお父さん」に投票するには、それなりの覚悟がいるはずである。1人区であれば、その小選挙区・選挙区の議席は空席になるが、これはあまりおこらないと言えよう。むしろ、1人区は地方が多く、都市部との比較において、世襲の議員(主に自民党)が当選することの意味あいがよりはっきりするのではないか。これで、現在の政治システムの問題の所在も明確になるのではないか。
比例代表でも白票をカウントする。これは、かなりのインパクトがある。まず、既存政党への不信任の明確化である。また、定数削減にも寄与するのではないか。つまり、白票分で獲得した議席は削減すれば良い。そもそも小選挙区・選挙区に地盤をもたない有名人か、小選挙区・選挙区ではもはや勝てない重鎮用のバックアップ(重複立候補)の為に使われる比例代表制の意味あいは、弱小政党からの非難が聞えるが、定数削減に使うくらいにしかないのではないか。』と言うものであった。
この案は現状の選挙制度では到底認められまい。そして、投票も間近に迫っている。そこで、700億円近くを浪費する、投票すべき政党も候補もいない前代未聞の選挙にあたって、あえて投票に行き、白票を投じる意味合いを最大限伝える方策を考えたい。
一案として、白票を投じる選挙民は、投票用紙に、「白戸家のお父さん」と明記するか、お父さんのシールを貼って(シールは記載に当たらないので、無効投票の中の白票ではなく、その他に分類されると思うが、どなたか、投票所の前で、1円で配っていただけると助かりますね)、投票し、出口調査で聞かれたならば、「白戸家のお父さん」に投票したと明言する。そして、ネット上で、自発的に各選挙区で、「白戸家のお父さん」の開票サイトを開設し、「白戸家のお父さん」に投票した有権者は、サイトに投票を申告し、開票速報を行う。信ぴょう性の問題は当然あるが、大きな流れになれば、前述した白票を有効投票として認めると言う制度変更を可能にする道筋をつけられるかもしれない。民主主義思想の歴史をみれば、民主主義という形態を維持しながら、その中身は変化してきたのであり、今回の試みも、変化をもたらす一つの試みなのである。民主主義思想にあって、企てというアイディアも重要であるが、試みという実行も非常に重要なのである。これを戯言と言うかどうかの判断は、読者各位に任せたい。
最後に、少し長い目で考えてみると、今回の選挙は、投票率、白票率、自民党の獲得議席数、自民党の得票率という観点で、今後の日本における政治の意味合いを問う、一つの試金石になるであろう。今回の結果次第で、日本の民主主義とは、投票率を無視した、世界的に見て、ガラパゴス的な(アリストテレスの言う)愚者(権益維持渇望者)の多数決型民主主義(自民党の一党寡占を肯定することは、多数政党による連立による合意形成型民主主義ではなく、単純な多数決型民主主義の優位を物語る。自民党は派閥が解体されつつあるので、自民党自体が多党的性格を持つというのは過去の主張である。昔の自民党の派閥の間には、ある意味での思想的違いがあったが、いまは、ただ権益の違いがあるだけである)であることを明確にすることとなる。それは、自民党圧勝といって、実は、政治の意味合いとその重要性の低下を政治家自らが主導すると言う皮肉な結果を導くのではないか。
より巨視的に考えれば、共同体(匿名性の放棄と全人格の把握を前提とする。しかし、このような共同体は、現在では三丁目の夕日幻想であろう)が存在した時代の社会関係>政治関係(村の長)>経済関係という抱合関係が、冷戦の中で、政治関係>経済関係>社会関係(もはや、匿名性と断片人格と自己演出を捨てて、匿名性のない全人格把握の共同体に本気で戻りたい言う人は、高齢者を除いて、一体どのくらいいるのであろうか)となり、冷戦の終焉後、グローバル化が急速に進む中で、経済関係>社会関係>政治関係(グローバル化の本質が、取引費用の大幅な抑制であれば、大きな取引費用である国家の存在が大きく減ずるのは必然である)という抱合関係になり、政治がその存在意義を減じ、周辺化しているということを如実に示すものとなるであろう。国民は、それを肌で感じているのであろう。選挙に行っても、今の生活が良くなるとも思わず、そして、行かずとも、大きく悪くなるとも思っていない。政治は、しょせん、金魚鉢の中の嵐と言うことである。知らぬは政治家ばかりと言うことであろう。若者は、現実的であり、すでに、国家と政治を当てにしていないのかもしれない。されど、社会においては、政治は存在し、制度として最低限は機能させないといけない。
2015-01-06 18:20