うつ病についての進化論的解釈
0うつ病というものも人間の行動であるかぎり何か根拠または理由またはメカニズムがあるはずで、分かりやすいのは医学的に生理学的解剖学的に故障しやすい部分があり、そこで発症するというもの。たとえば虫垂炎とかがそうですね。あのように行き止まりの構造になっていれば当然炎症にはなりやすいでしょう。また、神経症のように疾病利得の点で分かりやすいものならば、それはそれで説明がつきやすい。戦争で死にたくないから足が動かないとか。
歴史の中でずっと人間は生きているのに今になってもシゾフレニーも双極性障害も単極性うつ病も保存されているのだからなにか生存の理由に一部になっているのだろうと思う。しかしそれはよく分かっていない。例えば、ある行動をして、それよって周囲から賞賛され、異性から憧れられ、子孫を残し、お金も儲かり、他人を幸せにし、後世にわたって語り継がれることならば、当然問題はないことになる。
しかしうつ病でもシゾフレニーでも本人は損することが多いと思うのだが、どのようにしてこのようなことが起こるのか、メカニズムがあるはずである。
考えやすいのは脳の構造として虫垂炎のような、トラブルの起こりやすい構造になっているのではないかということだが、現状ではそれは明確ではない。しかしそれが一番考えやすい。
脳は、高位機能が停止すれば低位機能が出現するのが原則なので、多分、高位機能が停止して、うつ病として出現しているのは、低位機能はないかと考えられる。その場合、推定の仕方として2つある。1つは系統発生学的に遡る方法で、哺乳類とかさらには爬虫類とかまで遡り、行動遺伝学的に行動の原型を探る。もう一つは個体発生学的に遡る方法で、子供時代の行動様式にその原型を探る。哺乳類などで言えば、仮死状態がパニック発作の類型として考えられるのだろう。子供で言えば、derpivation剥奪、特に親などの養育者剥奪状況で途方に暮れる時、それが抑うつ反応の原型だろうという推定である。子供時代の行動様式に病理の原型を求める思考は、精神分析の時代から飽きもせずに繰り返し捏造されてきたのでので、最初のアイディアは悪くなくても、携わる人間がなんとも独自な思考形式を持つ人が多く、何を言っているのか、聖書の解釈を教会の聖職者が務めるような具合で、分かりにくさを競うような具合になって、ほぼ全員に無視される現状に至っていて、現在にいたりなおも精神分析に関心を示すのは、全くの素人か、その全くの素人を商売のネタにしたい一部の人間かに限られる。まったくもってジャスラックと同じくらい意味不明なのである。そのような不幸はあるものの、そして実証データが全く形成できず、明らかに説得力はないのであるが、それは数学の証明ではなく、お伽話だと思えばよい。誰も本当の話だとは思ってはいないのだ。そこから何か暇つぶしのねたが拾えたらそれでいい。面白いゲームと同じである。そう考えれば、どのような人種がどのような変な話をどの程度の真面目さで繰り広げているのか、それはそれで興味がないではない。何しろその人達はその方面のことに人生のほぼすべての時間を注入してしまったのである。なんという不幸だろうか。うっかりしている間に頭が大きくなって穴から出られなくなった「山椒魚」そのものである。したがって、彼らの言説の中には「山椒魚」の嘆きがこもっているのだと思われ、それを思うと切ないのである。彼らはなんと、ほとんどそれしかできない人種なのだ。これほど完全にコミュニケーション能力に欠ける典型種も少ないだろうと思う。
一方で、進化論の進展についてであるが、これは古くから全くもって頭の悪い学問で、至極普通のことをいうためにとんでもなく回りくどい論法を当然としている。それは一つには、もちろん、学問の種であるから、簡単に種明かしをしたら、教職ポストがなくなる。また聖書の天地創造説と矛盾する論説なのであるから、ある種、宗教戦争なのであって、世俗では、はじめから負けなのである。大学はイグナチオ教会に付属している。宗教戦争なのだから、世俗では負けても、宗教では勝利するというのが本当だと思うのだが、実際は宗教ではもちろん戦いにはならず、世俗でも圧倒的に宗教の勝利である。なにしろイグナチオ教会は資金力がある。そんなわけで、当たり前のことを言うのにも、細心の注意を払い、聖書も間違いではないのだと、危ない注釈を媚びへつらいながらでないと何も言えないのだ。それで、意味のない遺伝子とか、中立説とか、どう考えても普通の考えとしか思えないようなものが、進化論の歴史を堂々と彩っているのだ。ところがそうした思弁の世界とは関係なく、遺伝子操作の世界が拡大し、ヒトに関する遺伝子操作の可能性も広がり、再生医療に関係して、iPS細胞の話まで行ってしまうと、何の得にもならない思弁などどうでもいいものになってしまう。利己的な遺伝子学派が利他的行動を利己的遺伝子から計算で示してみせたのが30年くらい前のことだ。
1うつ病の行動の動物行動学的分析によれば、うつ病の人は「服従」に典型的な非言語的サインを提示している。うつ病の患者はアイコンタクトを避けることが多い。そして目と口の領域での動きが少なくなる。会話量が減少し、声に感情が乏しくなる。社交が減少する。服従の表現のためにしばしば種に特異的な子供の行動を利用する(それは伝統的に「退行」と呼ばれている)。また無力感の非自発的なシグナルとしての身体的愁訴を利用していて、それが自律神経症状である。不思議なことに自律神経症状は集団内にある程度伝染する。それが共感的理解の源泉にもなっている。世に言う支持的精神療法の『共感』であるが、多分、このような生物学的基盤がある。だから多分、更年期障害くらいのヒトが治療者として好適なのだろう。自律神経症状を共有できないことには共感が始まらないのである。うつ病では病理的に誇張されているのであるがが、これらの非言語的な行動は、自分に向かう他者からの攻撃を低減する目的がある。もう降参です、これ以上攻撃しないで下さいというサイン。犬が進んで喉を差し出し、甘噛みしてもらう、そんな状況。敗北状況の中で緊張緩和し、宥和政策をとることによって攻撃されることを回避することができる。うつ病はにはしばしば不安症状が伴う。重症型のメランコリータイプではカタトニー(緊張病)を伴うことがある。カタトニーは系統発生的に非常に古いタイプの防衛メカニズムである(死んだふりに近い)。以前はシゾフレニーの一亜型として分類されていたものが、最近ではDSM-IVになってうつ病・気分障害の分類化に移行された。うつ病者がどんな社会でも同じ行動をするわけではない。たとえば、緊急のサポートが欲しいとき、家族、特に配偶者や親・子供に攻撃性を向けることがある。怒鳴ればサービスが出てくるのである。うつ病者はしばしば非言語的な服従のサインを提示するのであるが、服従の言語的サインは出さないことが多い。おそらく、服従の言語的サインを出して世の中を軟弱に生きていく人間はうつ病などと認定してもらわなくても生きていけるのだろう。服従と支配は社会性動物にとっての本性である。人間は複雑な階級制を作っている。このあたりは京都学派の猿山の話であって、実際の人間の社会は違うじゃないかという観察と、いやいや、人間社会の原型がまさに京都的猿学派の観察にあるとの感想がある。これは2つの物の見方があるということなのだろうし、2つの人種があるということなのだろう。猿社会そのままだと感じるヒトは猿的社会を生きていて猿的原理を生きているのだろう。それ以外のヒトは多分もっと人間に近い社会を生きているのだろう。そうしたものが混在しているのがこの社会の実像なのだろう。(人間の原始的社会では階層に関してはかなり平等主義的な状況だったと考えられている。)食料資源や異性を巡っての競争をいつもしていては疲弊してしまう。階級制により立場の差を作り、直接の肉体的対決を階級制に置き換えて、互いにコミュニケーションして協力するシステムを作らなければ生き延びることができなかった。何しろ人間は猛獣の餌の1つなのである。そのようにして勝者は敗者を殺してしまうことなく同じ社会の中にとどまることができるのである。古い人骨が出てくると大抵は頭蓋骨に穴が開いていた理、どこかの骨が折れていたり、実に乱暴な社会であったことが知られるのだそうだ。古代社会では社会から締め出されるということは死の宣告に等しいだろう。支配者に服従することで命が助かるならいいことだったと思う。よいDNAを残すという点では不利になるが死んでしまうよりはいいだろう。悪いDNA同士で悪い子孫を残せばいいのである。長い時間の間に逆転が起こるのである。危機に際して戦うか逃げ出す(fight & fleet)かという選択があるのだが、自分と相手の力を比較し、今後の協力関係はできそうかを考え、戦っても勝ち目はないし逃げだそうにも不可能だという場合、とりあえず一時的には服従するのが得策である。このように考えてくると、うつ病はやはり服従の一つの表現であり、急性ストレスや慢性ストレスに対してうつ病で反応しているらしいが、それは、支配者から強要されるストレスが社会からのストレスに置換されていて、餌とよだれの関係がベルとよだれの関係に移行するのと同じである。古典的条件付けである。競争状況の中で危害を加えられることを回避するには服従がよく、服従の極端な病理的な形がうつ病である。主に人間社会や対人関係の中で起こることであって、対人関係的でない場面では起こりにくい。ここから対人関係療法の根拠を説明することができるかもしれない。結局は対人関係に還元されるとするのは、結局人間社会は階級制だと結論するようなものでなんともはやコメントも難しい。しかしそれが現実である。社会階層の争いの中で敗北した場合に、それを受け入れて服従するか、受け入れずに他の社会に移動するか、それが現実的な選択である。そのどちらもできない場合、病理的な反応をすることがある。精神療法の方針としては、すぐ家庭状況や職場状況を変えることもできないので、せめてできることは心的現実を変化させ、たとえば、自分の属する集団を仮想的に変化させれば、その中での順位も変更されることになり、それは心理的に有利だろうとの推定も成立する。この側面は認知療法で扱うことができる。100人中の40番だったとして、それがすごいのかつまらないのか、もう40番なのかまだ40番なのか、しばらく考えることは出来るだろう。コンテクストの問題はこの面で考えることができる。コンテクストをずらすということで準拠集団をずらすことができて、その中では順位が違うのだから、気分も違うはずなのである。アメリカでいうアサーショントレーニングは、集団内での順位を変更する手段と考えることもできる。結局、猿山の猿の話でしかないのである。
2非言語的シグナルは、体の姿勢に典型的に現れるが、それは脊椎動物一般の行動特徴の名残だろう。「両生類の脳」が作動していると考えられる。この部分と感情中枢である辺縁系が連動していて、うつ病が起こるのだろう。たったそれだけといえばそれだけである。服従サインは二つの意味があり、一つはこれ以上戦わないこと、一つは助けを求めていることである。服従サインを出しているうちはすぐに競争に戻らなくてもいい。すごろくの一回休みのようなものである。抑うつは他者の世話を引き出す働きがある。他者から養育の本能や愛着の本能を引き出す。子供が養育者から引き離されたときにうつ病は典型的に現れる。そんな子供がいたらよその子でもかまってあげたくなるというものだろう。子供は引きこもり沈黙する。それは迫害者に見つからないための行動であると解釈できる。そうしたうつ感情が意識にも無意識にも影響を与えて、環境の解釈に影響する。世界全体がブルーに沈んで、意味が剥奪されるのである。
報酬よりも投資が多い。報われない。これがうつ病や気分変調症の行動特徴。服従により支配者は報酬をくれると信じたくて自己欺瞞に至る。そしてさらに抜け出しにくい心理の穴に入り込み、「山椒魚」のように抜けられなくなる。自己欺瞞を解除すれば絶望的な現実が待っているので解除できない。時にはAlcoholに走ったりもする。自己欺瞞を続けていくにはある程度頭が悪くないといけない。気がついてはいけないのだ。気付きそうになって、まずいと感じると、爬虫類の脳と自律神経系が反応して、病像が完結するのである。完結した病像はコブラツイストで、容易には外せない。というか、外せないと思い込みたいのである。ここで二重の自己欺瞞が発生する。コブラツイストは死ぬ気で外そうと思えば外せるに決まっているだろう。
2015-01-03 05:25