知識人の苦悩
昔から知識人は苦悩してきた
権力者に都合の悪い真実を語るべきかどうか
民衆に都合の悪い真実を語るべきかどうか
しかし現在の知識人の苦悩はまた別のものがある
現在では知識は莫大に増大している
一人では理解しきれないし、個人の内部で、それらの知識の総体を体系化することも難しくなっていて、
ということはつまり、個々の知識の意味付けも難しくなっているということだ
知識人が知識人であるのは、
個々の知識をどのように全体の中で位置づけ、評価するかということにかかっている
コンピュータで検索すれば雑多な情報が沢山出てくる
そのそれぞれの意味付けを読み取り、全体の中に位置づけることがだんだん難しくなっている
自分のほんとうの専門というような狭い分野であれば
情報の位置づけは難しくない
誰がどのような意図でマスコミに働きかけて
誰が動いて誰から資金が出てというようなことも想像は難しくない
情報は重要ではないものか、重要なものか、今後重要になるかもしれないものか、見当がつく
しかし専門から外れた場合には、そういった事情の読み取りは極端に難しくなる
編集技術が向上したこともあるのだろうが
知識の総体が膨大な量になり、それらを内的に関連付けて理解することが困難になっているからだろうと思う
知識人という言い方は昔の言い方で、
現代的に言えば、はやぶさ2のロケットの先端の合金の専門家、というようなものだろう
あるいはイヌイット族の一部に見られる腸内寄生虫の専門家など
それでも極めるには一生かかる
認知症発症との競争である
そして申し訳ない言い方であるが
その分野の学問や技術を極めても極めなくてもたいして重要ではないのだ
そして大衆によく受け入れられる、人気の出る知識人というものがいて、マスコミに便利に扱われる
ゴーストライターに本を書かせたりする