“ あなたは、心臓のどこかにずっしりと鉛のようなものを飼っている。鉛は獣のかたちをとってあなたに言う。
無理だ。
無理なのだ。
おまえはあそこには行けない。
なぜならば、能力も資格も、あらゆる明るい場所に参加するためのものを欠いているからだ。
だから、恨め。自分を拒絶するものを。憎め。この世界を。黒く、黒く、己の憎悪で塗りつぶせ。原因も結果もわからなくなるくらいに。黒く塗りつぶす。それ自体がおまえの意志だ。おまえはそのようなものとしてこの世界に生まれた。殺せ。憎め。壊せ。自分を慈しむ親を惨殺せよ。知人としての気配りを見せてくれた人間の偽善には刃を、美しくほほえむ少女の顔面にコールタールを、庇護される子供に理不尽な暴力を、愛しあうすべての人間に絶望を、この世界がこのようであることに絶対の呪詛を。
ああ、闇は安全だ。この闇は薄汚い。糞便に満ち、腐臭を放ち、踏み込む人間の足を溶かす。ここは安全だ。この腐臭はあなたを守る空気の壁。この糞便は近づくものを追い払う迎撃装置。なにものも、ここには入れない。
ただ、この、皮膚を這い回る虫だけが鬱陶しい。その虫の名を、視線という。俺を汚いものとして見るな。俺を対等な人間として見るな。俺を哀れむべき存在として見るな。俺の存在を検知するな。俺は、いない。俺はおまえらに俺を見ることを許可していない。
塗りつぶせ。黒く。あの善意に満ちた人間たちの視線を塗りつぶせるほどに。
獣が寝静まる。静かな時間が訪れる。それはだいたい深夜のことだ。
あなたの足は夜をうろつきまわる。人は寝ている。活動していない。これは正しい姿だ。すべての人間は、このように夜のなかでだれにも影響を与えずに、ただモノのように存在しているのが正しい。
獣も、寝静まればその重量を失う。足取りは軽くなる。
あなたは夜を抜け、やがて朝に出会う。黒々とした闇を切り裂き、夏の太陽が世界を支配する。空は赤く焼け、やがて青く染まる。どうしようもなく、純正の青が天空を支配する。どれだけ世界を黒く塗りつぶそうとも、わずかな穴を通じて空の青がしみこんでくる。
これほどまでに青く、残酷なまでに美しい空。
あなたは、闇が安全であることを知っている。それと同時に、世界が美しいことをも知っている。どちらも真実だから、あなたは引き裂かれる。引き裂かれるのは苦しい。苦しいのは、感じる主体、見る主体としての自分が存在しているからだ。そう、そこには極めて簡単な解決方法がある。
もしあなたが孤独で、明日を生きる理由が見つからないとする。とりあえず今日は死なずに生きた。しかし明日はどうだろう。死なずに生きているだけの今日が、何十年も続くのだとしたら。
しかしそれでもあなたは死なずにいる。明日を、世界を、人間を、そして自分をも、すべてを否定して、すべてから拒絶されて、消滅してしまいたいあの瞬間に、それでも飯を食い、便所に行く。これほど惨めなことがあるだろうか。人は肉体の奴隷なのか。
違う。その肉体はあなたの肉体であり、あなたは肉体の支配者だ。あなたは右手を自分の意志によって動かすように、左手をも動かすことができる。左手を動かすように、話すことができる。あなたは、たとえその生が、どれだけ苦痛にまみれていようと、どれだけ孤独であろうと、生きることを選択している。
そしてその生が孤独であるならば、あなたは孤独であることを自分に許容している。許容することが可能だともいえる。あなたが孤独で、なおかつ死なずに生きている場合、あなたの孤独は、あなたの生を支えるだけの豊かさを持っている。
多くの人は、孤独であることに耐えられない。孤独から逃れるためなら、自分をも捨てる。あなたは、それが人の世界に参加する条件だと思っているかもしれない。しかし、違う。その方法で孤独から逃れられるのは、もともと捨てられる程度のものしか持っていなかったからだ。それを羨む必要はない。持たないものに可能性はない。
この孤独は、自分で選択したものではない、とあなたは言うかもしれない。必然的に与えられた孤独だと言うかもしれない。その孤独はあなたを蝕むだろう。生きる気力を奪い、獣を養い、あなたを、人間を、そして世界を食い殺す。その厭わしいものは、あなたに一時のすばらしい夢を見せるかもしれないが、しかしその夢になんの意味があるのかとあなたは問うだろう。そして、その問いはおそらく正当だ。
しかし、それにもかかわらず俺は言う。
その孤独はあなたの財産だ。
それは、あなたに人間の闇を教えた。あるいは、病的なまでの空の美しさを教えた。人の弱さを教えた。夏草のあいだを歩く子供たちの、あの悲しい夢を教えた。白い世界のまんなかで儚く消えていく少女への愛しさを教えた。あなたが夜の側の人間であることを教え、夕闇の世界の片隅でうずくまっているやさしさを教え、深夜の信号の明滅の美しさを教えた。
それは、世界でただひとり、あなただけが持っているものだ。たとえ不可避的に与えられただけのものであろうと、それは財産なのだ。
その腐臭と汚物にまみれた世界で立ち上がれ。立ち上がる理由などなくとも立ち上がれ。世界中があなたを憎悪しても立ち上がれ。もし世界があなたを憎悪するなら、あなたにとって世界は無価値だ。しかしあなたは生きている。死ぬことができない。ならば美しいものを探せばいい。あなたには武器がある。最大の味方であり、最大の敵であり、つまるところあなた自身である孤独という武器が。
立ち止まるな。歩け。転んでもいい。汚物にまみれようと、薄汚い存在であろうと、卑怯であろうと、ゴミ以下であろうとそんなことはどうでもいい。あなたは汚物から生まれたのだから、恐れるものはない。
ただ、立ち止まるな。希望を失うな。
あなたは信じないだろう。これだけはいくら言ってもあなたには届かないかもしれない。しかし俺は何度でもバカのように繰り返す。世界は美しい。これが、あなたに与えられたただひとつの世界なのだから、それは必ず美しい。
何度でも言う。世界は美しい。それは、絶対のことだ。
あなたは、ひとりきりで、そこに辿り着け。
真実は、ただ、そこからしか始まらない。
以上、世界が実は美しいらしいと、絶望とともに気づいてしまった27歳の自分へ。
”
2014-11-04 17:46