これまで自民党の中には、伝統的に野党や反対派を取り込んでいく「左向き」の政策や勢力がありました。この部分を野党時代にすっかり失い、あるいはそぎ落として、「右向き」の政策、勢力のみで登場してきているのが今の安倍政権です。「左向き」とは、自民党の中で政治理念よりも利益分配によって支持を集めようとする政策のことで、その中には社会保障制度の確立、維持にに力を入れたり、経済格差の一定の是正などを目指す人々のことです。小泉政権時代に「抵抗勢力」としてそぎ落とされてきた勢力のことでもあります。この勢力は、自民党の伝統政治の中で、常に自民党政治に不満を持つ人々を吸収し、野党や左翼の側に人々の支持が向かないための役割を果たしてきました。不満のショックアブソーバーでした。それが自民党の極めて長期にわたる政権を支えてきたとも言えます。今の自民党にはそうした勢力が不在です。小泉氏自身が解体を進めたためですが、野党になることで利益分配ができなくなってしまったことも大きい。そのため自民党はショックアブソーバーを持たないむき出しの右翼政権になっています。実は本質的には、高度経済成長期よりずっと弱いのです。
自民党の長期政権を可能にしたこれらの人々の持つ政治的傾向は、戦後政治史では「保守本流路線」と総称され、吉田茂―池田隼人―田中角栄―宮沢喜一などに継承されてきたものと分類されています。(以下、歴史的記述では敬称を省略します)「軍事小国・経済大国路線」などとも言われますが、しかしそれがはっきりとした定着を見たのは、安倍首相の祖父の岸伸介による戦前回帰、軍事大国化路線が民衆によって否定される中でのことでした。戦後の混乱期を経て、1955年に保守合同がなしとげられて自由民主党が成立した時、自民党の中には、戦前のような国家に回帰しようとする潮流と、戦前の様な軍部独裁は二度とごめんだと考える潮流が矛盾的に併存していました。こうした中でで首相となった岸伸介は、戦前回帰の代表として振る舞い、対米従属も超えた軍事大国に日本を発展させようとして、日米安保条約改定を重要政治課題に据えます。こうした中で1960年、条約の改定の日が近づいてきました。
岸内閣の政策に戦前のファシズム国家の再来を見た民衆は、安保改定反対を叫んで行動を開始。やがて国会前には数十万のデモ隊が連日包囲する状況が生まれました。人々は軍国主義的な岸内閣退陣を叫び続けました。やがて岸伸介は、安保条約改定を強引に実現したものの、退陣を余儀なくされました。民衆の力が軍事大国化を阻んだのです。続いて登場したのが池田勇人を首班とする内閣でした。戦前回帰の岸伸介に対し、池田が打ち出したのは「所得倍増計画」でした。安保をめぐる矛盾を、民衆の生活の向上の中で解消しようとしたのです。このため池田内閣は野党から「低姿勢内閣」などと呼ばれました。池田は、安保条約を維持する理由についても、岸内閣のようにアメリカと対等な軍事同盟を保持する国家に変貌していくためのものではなく、経済的に不効率な軍事部門をアメリカに任せ、日本はその分、経済成長に邁進することができるから良いのだとうたいました。
池田内閣はさらに国民皆保険制度をはじめ、社会保障制度の充実も推し進めつつ、1964年の東京オリンピックに向かいだしました。経済発展の象徴として新幹線や首都高速、東京タワーなどが次々と作られていき、実際に所得が大きく伸び始める中で、安保闘争は次第に後景化していきました。このとき池田首相のブレーンであり、のちに首相となった宮沢喜一氏が、こうした政策を「ニューライト」路線と名付けました。その中には左翼政党が主張する社会改革の内容を、自民党が取り込み、実現していくというモメントも含まれていました。宮沢らは、戦前への回帰を目指す「オールドライト」に対して、安保闘争に日本の民衆の中への民主主義の浸透を認め、それとの融和を目指したのでした。そのため軍事・外交路線の政治焦点化は避け、生活向上を政治の争点にし、「豊かさ」の中に民衆を包摂しようとしたのでした。これは安保反対運動の大きな高揚、民衆の力の台頭への恐れからきたものでもありますが、同時にいかにそのエネルギーを解体し、取り込み、経済成長の活力に転化していくのかを考え抜いたものでもありました。
こうした政策は、もともとロシア革命以降の世界的な社会主義の台頭に対応し、第二次世界大戦後のイギリスを中心に、自由主義諸国で生まれたケインズ主義的な政策を下地としていました。政府が積極的に財政出動を行い、需要を創出して経済成長を果たしつつ、同時に高福祉国家を実現する政策です。戦後の荒廃の中から立ち上がった日本では、経済再建の分野で、政府が強力にリードしていくケインズ主義が確立していましたが、池田内閣以降に積極化されたのは、「所得倍増」の合言葉のもとさらに公共投資を拡大しつつ、民衆へも一定の利益配分を行うことでした。東京オリンピックはその絶好の機会でした。日本はこれを契機に「高度経済成長」の道をひた走っていくようになります。池田政権はケインズ主義を社会保障制度の拡充にも適用し、皆保険制度のもとでの医療の充実などが図られていきました。このもとに国会を取り巻く数十万のデモで岸内閣が倒されながら、自民党は政権を失わず、その後の野党勢力の拡大を押しとどめて、民衆の支持の拡大をもう一度、実現することに成功しました。
しかし民主主義を求める民衆の声は、1960年代後半から再度、再燃していきました。60年代にアメリカがベトナム戦争を開始し、日本各地の米軍基地から爆撃機が飛び立つ情勢の中で「ベトナム反戦」を軸に民衆が再度、大きく立ち上がったのです。この時、自民党の中で台頭してきたのがのちの首相の田中角栄でした。田中角栄は、民衆運動の中でも突出して高揚する学生運動を力づくで押しつぶすことを画策。「大学運営に関する特別措置法」という法律を国会通過させました。それまで「聖域」として警察が介入できなかった大学に、警察権力=機動隊の導入を可能にした法律です。田中のライバルだった大平正芳のブレーンの伊藤昌哉は、自著『自民党戦国史』の中で、このとき田中角栄がこの法案を手に「これでわしに天下がやってくる」と叫びながら国会の廊下を走ったという逸話を紹介しています。それほどに学生運動を潰すことは、国家にとって重要な課題だったのです。やがて田中は「天下をとって」首相になりましたが、政権をとるやいなや、伝統的な経済的取り込み路線を大々的に推し進めました。日本中に金をばらまいた「日本列島改造論」です。新幹線や高速道路の拡張を軸に、公共投資をさらに拡大し、生産力をどこまでも伸ばしていくことが目ざれました。原発もその重要な柱の一つとされました。
保守本流路線はこのように、1970年代も貫かれていきましたが、しかしこの路線は、戦後世界の枠組みの大きな変容の中で次第に展望が見えなくなっていきます。最も大きな要因は、ベトナム戦争で疲弊したアメリカが1971年に、ドルと金の兌換を一方的に取りやめる宣言をなしたことです。これに追い打ちをかけたのが1973年のOPEC諸国による石油戦略の発動でした。アメリカの豊富なドルの力を背景としたスペンディングポリシー=公共投資による有効需要拡大政策と、安い石油原料を背景とした加工貿易体制が大きくぐらつきだしたのです。1970年代は世界的に資本主義の行方をめぐる動揺の時代とでしたが、次第にアメリカの中からケインズ主義による有効需要創出の創出や、社会の安定化のための社会保障制度の拡充を否定する潮流が台頭してきました。いわゆる「新自由主義」です。経済学の分野で中心をになったのは、経済学者のミルトン・フリードマンでした。フリードマンはケインズ主義のような政府による市場への介入が自由競争を阻害していると激しく非難。また社会保障制度があるから競争心が育たないのだと主張し、弱肉強食の市場原理こそが経済を発展させると顕揚しました。
やがてフリードマンらの経済政策を採用しつつ、他方で強引な軍拡を行うという矛盾をはらんだ政権がアメリカに登場します。レーガン政権です。レーガンは強いアメリカの復活を掲げ、そのために自由競争の強化が必要だと訴え、社会保障制度の切り捨てを始めました。一方で大規模な軍拡を主張。大陸間弾道弾とは別に、トマホークなどの巡航ミサイルに搭載した戦術核の使用にまで言及。この点が「小さな政府論」とは矛盾していたのですが、レーガンはさらに、大気圏外に打ち上げられた衛星からのレーザービームによってソ連邦の大陸間弾道弾を撃ち落とす「スターウォーズ計画」をすら表明します。このレーガンの登場に呼応するようにして登場してきたのが、イギリスのサッチャー政権でした。サッチャーも、社会保障制度の充実化こそがイギリスを構造的な停滞においやったと唱え、自由競争の強化を掲げました。日本でも、自民党の傍流に位置していた中曽根康弘が首相の座につき、伝統的な保守本流路線の清算を意味する「戦後政治の総決算」を呼号しました。中曽根は社会的共通資本であった国鉄の分割民営化を叫び、日本労働運動の拠点であった国鉄労働組合(国労)の強引な解体を推し進めました。
これらの政策は、世界的にも日本国内でも、自由主義政権が人々の支持を取り付けるために行ってきた「左向き」の政策を捨てることを意味しており、国内矛盾の激化が必至のものでしたが、もっと大きな世界史的要因によって、政策遂行者を有利な立場に置きました。ソ連や東欧の社会主義が行き詰まり、崩壊しだしたことです。1970年代、資本主義各国は、アメリカの経済力と、安い資源によって生産力の拡大を実現し、利益分配を可能にして資本主義体制のもとに人々をつなぎとめきたそれまでの政策の根拠を失い、政治的な不安定を迎えていました。ところが資本主義の競争相手であった社会主義各国も、社会の硬直化の中で生産拡大のインセンティブを失い、行き詰っていました。こうした中でソ連邦は、レーガン政権のとった大規模な軍拡路線に対抗しきれなくなっていきます。こうした中で1985年、ソ連共産党の新たな書記長にミハエル・ゴルバチョフが就任し、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)軸とする大改革が断行されはじめました。アメリカとも電撃的に軍縮会談を行い、冷戦終焉がにわかに現実味を帯びるようになりました。
ゴルバチョフはまた「人間の顔をした社会主義」を標榜し、ソ連や東欧社会主義の硬直化を脱することを目指しました。しかしそれまでの長きにわたる共産党独裁体制からの転換は、それまで押さえつけられていた矛盾の一挙的な噴出となって現れました。これに拍車をかけたのが1986年に起こったチェルノブイリ原発事故でした。事故直後のソ連当局の事故隠しの在り方が、政府に対する民衆の信用を大きく後退させるとともに、長きにわたって上からの指令のもとで暮らしてきたあり方の見直しが始まったのでした。ソ連内部から始まったこの大きな変動はたちまちのうちに東欧社会主義各国に波及、各国共産党も、ソ連の後追いをするに「改革」政策を打ち出しますが、それよりも民衆の覚醒が早く進んで体制が大きく揺らぎ始め、社会主義各国が1980年末に次々と瓦解。やがてソ連邦までもが1991年に崩壊してしまいました。自由主義圏各国内部にもこれが波及。多くの国で民衆運動や労働運動に影響力を持っていた左翼政党が、社会主義の世界史的後退の中で支持を失い、新自由主義的な政策は、十分な対抗軸が形成されないままに社会に浸透しだしてしまいました。
もう少し、ケインズ主義とその行き詰まりについて書き足しておきたいと思います。
前回の記事で僕が書いたのは、自民党がかつてはケインズ主義の立場にあったことです。ケインズ主義は1929年の世界恐慌を経て、第二次世界大戦にいたっていった20世紀資本主義の反省から生まれたものでした。経済を市場の動向に任せるのではなく、政府が金融政策などから積極的に市場に介入し、恐慌を避けて、「健全な」経済成長を保障する政策です。同時に、ロシア革命以降の社会主義の歴史的発展に対抗すべく、社会福祉政策をそれまでより重視し、累進課税性などによって貧富の差の拡大の一定の是正などを行うことも特徴としてきました。
自民党の場合は、1960年の安保闘争の大きな広がりを経て、岸政権のように軍国主義に舞い戻る政策を戒め、安保条約のもとで、「軍事はアメリカに任せて経済発展を重視する」ことをうたう路線が定着しました。これ以降、自民党は主に経済的利益の分配によって集票構造を維持し、さまざまな批判や不満を、主に金銭的に吸収していくことを構造化しました。かくして自民党は長期政権を現出させました。
ここで私たちが踏まえておかなければならないのが、「軍事はアメリカに任せて経済成長を重視する」ということが何を意味していたかです。端的に言えば、アメリカが戦争を行い、日本はそのものもとで発展するということです。事実、私たちの国は、戦後の混乱から「朝鮮戦争特需」によって経済的復興しました。アメリカが戦争のための資材を日本で調達したからです。さらに「ベトナム戦争特需」によっても日本は大変な利益を上げました。その利益の国内への分配で、私たちの国の民はまるめこまれてきてしまった。経済的利益の分配で、世界への目、正義への目が曇らされてきたのです。
私たちはこの構造は、今もなお続いていることに十分な注意を傾ける必要があります。福島原発事故によって覚醒した多くの人々が全国でデモを行っているのに、なぜ原発再稼働を掲げる安倍政権が存在できているのか。「アベノミクス」による「まるめこみ」の力の方がなお大きいからです。いやより正確には、これと現在の選挙制度の歪みが重なることによって、少数派による多数派の仮称が可能になっていることがからなっていますが、いずれにせよ、自民党の集票構造は今なお大きく経済的利害に偏っています。
しかしその世界的な枠組みは、1970年代に大きく崩れ出しました。
戦後のケインズ主義政策は、第二次世界大戦を通じて、政治的経済的な圧倒的な覇者となったアメリカの、潤沢な資金の存在によって可能となったものでした。第三世界=旧植民地諸国から生み出される安い工業資源もこれを支えました。ところがアメリカは1960年代からベトナム戦争にのめり込み、多大な軍事支出によって、次第に世界経済の中心国としての重みに耐えなれなくなり、1971年、ドルショックを宣言して、ドルと金の兌換を一方的に廃止してしまいました。さらに1973年、中東の産油国の連合であるOPECが、エネルギ―戦略を発動、原油価格を一気に高騰させました。このためにケインズ主義的政策は、各国で音を立てて崩れ始めます。
このときケインズ主義の、「大きな政府」路線、政府による経済への介入や、福祉政策の充実こそが、経済停滞の要因だと主張して登場してきたのが、今、世界を席巻してる「新自由主義」です。新自由主義はケインズ主義を「社会主義」として攻撃しました。当時、新自由主義政策を唱えたのはアメリカ・レーガン政権と、イギリス・サッチャー政権、日本・中曽根政権でしたが、実はもう一つ、大きな国が、新自由主義政策の道を走り出しました。赤い資本主義の国、中国です。なぜ中国は新自由主義路線を走り出したのか。この時期、中国は文化大革命が終焉し、「開放・改革経済」に向かい始めたところでした。「開放・改革」経済は、それまで戒めてきた資本主義的発想を取り込むことを目指すものでしたが、取り込む相手がこの時、新自由主義に転換しつつあったのでした。文化大革命は、極端な平等化や金儲け主義の徹底した否定という側面を持っており、そのもとで生まれた政治的混乱が長く続いたため、新自由主義による社会主義批判が、文化大革命批判と結合してしまった側面が大きくありました。
かくして世界は1980年代より、弱肉強食の資本主義に舞い戻り始めたのですが、これに対抗する位置があったはずの社会主義各国もまた、経済発展において完全に行き詰まり、資本主義への対抗軸の位置を大きく後退させてしまいました。あたかもそれは新自由主義の正当性を証明するような錯誤を生みましたが、むしろ露呈したのは、それまで唱えられてきた社会主義の主張の多くが「資本主義より社会主義の方が経済発展する」という点に偏ってしまい、資本主義的な、金儲けの追及を中心とする人生観や幸福感を、十分に批判できていない点であったと僕は思います。特にソ連邦は、アメリカとの軍拡競争の中で疲弊を深めるとともに、1979年から開始したアフガニスタン侵攻によっても、かつてアメリカがべトナム戦争によって疲弊したのと同じ構造に落ち込みました。さらに1986年、チェルノブイリ原発が巨大な事故を起こし、政府や社会主義からの人心の離反を促進させてしまいました。社会主義の下では幸せになれないという思いが、東欧、旧ソ連邦に広がっていったのです。
しかしケインズ主義から新自由主義への転換を図ったはずのアメリカでも矛盾が続いていました。強烈な反ソ連政策を掲げたレーガン政権が、大軍拡路線を取りつづけたからです。軍拡は政府による大きな財政出動のもとでしか実現できないもので、むしろケインズ主義そのものと言ってもいいものでした。アメリカは軍拡競争にうちてこれなくなったソ連に対してこそ優位性を示したものの、財政出動によって巨額の赤字を作り出してしまいました。それでは日本はどうだったのでしょうか。世界的にケインズ主義が行き詰った1980年代になお順調な成長を続けたのは日本でした。日本もまた高度経済成長が1970年代にいたって頭打ちになり、政府の財政が赤字に転落しましたが、なお積極的な経済介入の政策が続きました。そのもとで自動車や家電などの「ハイテク産業」を中心に、欧米への輸出を伸ばし続けたのです。アメリカの産業が他国に転出する「空洞化」を迎えたことに対し、発展を続ける日本経済は、アメリカの反感を買い「日米経済摩擦」が生じます。アメリカはこのころ、ベトナム戦争で自国が疲弊する過程で、輸出貿易を軸に大きな経済発展を実現した日本を、次第に経済的な「敵」と認識し始めていました。かくして対日赤字を削減するための圧力が強まり、1985年の「プラザ合意」によって、「円高」が現出し、日本経済もまた大きな転換の渦に巻き込まれていくこととなりました。
2014-02-17 03:56