思考は人類に与えられた究極の娯楽だ

思考は人類に与えられた究極の娯楽だ、と思う。

お金かからないし、身体ひとつでできるし、場所も選ばない。考えてもわからないことばかりだから永遠に楽しめるし、なによりおもしろい。

私が本を読むこと、電車に乗ること、散歩をすることが好きなのも、言うなればそれが「考える」のに最適な状況だからだ。適度に材料が入ってきて、適度に雑念が消えて、適度にまとまった時間であるという、これ以上ない条件がそろってる。

朝は特に脳の調子がいいので思考がはかどる。通勤途中、ニュースで仕入れたネタについてあれこれ考えながら歩いているときに知人に話しかけられると、相手にとっては唐突にわけのわからない話をふってしまうのが難点といえば難点だろうか。

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“愛するって実は孤独な作業. コツコツと愛せ.”

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“●交通事故で死ぬ確率 0.003%
●過労で死ぬ確率 0.0003%
●合コンで出会った相手と結婚する確率 8.8%
●社内恋愛する確率 37.5%
●夫が浮気している確率 50%
●結婚できない確率 12.6%
●プロ野球選手と結婚できる確率 0.001%
●できちゃった結婚する確率 63.3%
●夫の収入が妻より低い確率 4.1%
●婿養子になる確率 1.4%
●ほぼ毎日セックスしている確率 3.3%
●Jリーグ選手になれる確率 0.18%
●ニートになる確率 2.2%
●正社員ではなくなる確率 28%
●転職で給料が上がる確率 55.6%
●年収1000万円以上稼ぐ確率 7.3%
●都心に新築マンションを購入できる確率 0.4%
●定年後もいまの生活水準を保てる確率 12.9%
●ホームレスになる確率 0.02%
●自己破産する確率 1.5%
●オレオレ詐欺でだまされる確率 0.008%
●保険金目当てに殺される確率 0.00002%
●盗聴されている確率 12.9%
●裁判員に選ばれる確率 0.02%
●震度6以上の地震に見舞われる確率 86.3%
●エレベーターに閉じ込められる確率 1.8%
●落雷被害にあう確率 0.00003%”

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お母さんはご飯を作る
毎日毎日ご飯を作る

食べてしまって消えてしまう物に
お母さん達は愛情を注ぐ

子供が元気に育ってくれるように
夫が健康を損なわぬように
お母さん達は毎日消えてゆく食事を作る

その偉大さは変わらない

食べて消えてしまう物に注がれる愛情は
子供の記憶から消える事は無い

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私は現在26歳の大学院生、男です。
私は少年院に通っていました。

スレタイは通ってましたの方が良かったかもしれませんね。
今でも昨日の事のように思い出されます。

中学一年の頃、私は虐めにあいました。
初めて受けた屈辱に自分の弱さが大嫌いになりました。

小学生の頃、私は勉強も出来るほうでスポーツもかなり得意でした。
そのためか割りと友達も多く順風満帆といった感じの生活を送っていました。

その頃から理論物理に非常に関心を持っていたため将来は大学教授になるのが夢でした。
親にもよく話をしていました。すると親は、
「そんな勉強したいなら中学も受験したら?」
と言いました。私はあんまり考えもせず「受験」という言葉に惹かれて私立の受験を決意
してしまったのです。
小学6年の7月のことでした。

小学生最後の夏休み私は大手の進学塾に通いよく勉強しました。
そこの塾は皆優秀で同じ私立中学を目指す友達も多くいました。
7月から入塾したためなかなか話し相手が見つからず、休み時間は静かなものでした。
周りの話し声を遠くに聞きながら机の上でよく社会の年表をみて過ごしたものです。

学校の知り合いは一人もいません。
夏休みの或る日全国模擬テストが開催されました。

「努力の甲斐あってか塾内では3位という好成績をとることが出来ました。
塾では一気に有名になり、これを機に多くの友達も増えました。

母親はどちらかと言うと甘い人で昔から若干親馬鹿といった感じでしょうか、この時も
異様なまで私を褒めちぎるのです。私もとても嬉しく次も頑張ろうと思いました。
一方父親は寡黙な人で褒めることなんてありません。

翌日から塾では休み時間に友達と弁当を食べたり話したり出来るようになり塾でも学校でも
本当に楽しい日が続きました。

そして中学受験。倍率は7.8倍とかなり高かったのですが何とか合格出来たのです。
家ではお祝いもし、私はこれから始まる中学生活は希望で満ち溢れていました。

中学ではやはり塾と同じように知り合いは見当たりません。
小学校からエスカレーターであがってきた生徒が多く校区出身の生徒はあまりいません。
私のような校区出身者は静かに席に座っている人が多かったです。

でも私は皆とお喋りをしたりするのが大好きなので何回も自分から友達を作ろうと話しかけたりも
しました。でもそう上手くはいかず、約1ヶ月半そのような状態が続きました。
そして最初の中間テスト。
各教科の担当の先生は成績優秀者を上から数名挙げる人が多く私は理科と数学で名を挙げられ
ました。顔には出せませんが心の中では本当に万歳でした。
塾の時と同じようにこれでまた友達が出来るのではないか」
とも思いました。
その翌日からです。すべてが狂い始めたのは。

私はいつものように席に座ります。しかしいつもと何か違う。
机の中の教科書が一冊もありません。
そればかりかロッカーの中の体操服も。
それからというものやたら物が無くなっていきました。
小学時代は全てが上手くいき何も問題なく過ごしてきたのでまさか虐めなどとは思いもしませんでした。
しかしそんな私でも実際に暴力を受ければ気付きます。
最初のうちは頭をうしろからしばかれる程度でした。
段々度が増してきて背後から膝で背中を蹴られたりし呼吸が出来なくなる事もありました。
私は学校が嫌いになりました。

でも親はいつものように親馬鹿ぶりを見せるのでまさか虐めなんて事は言えません。
なるべく家では明るく振り舞うように努力しました。
一学期が終わりになる頃、私はとうとう虐められているグループ(10人ほど)に呼び出されました。
こうして対面して何かを話すのは初めてです。今度は何をされるのかと怖さ故に足がガクガクしました。

虐めグループ「これからお前はクラスで一番下の位になれ。」

私はそれを聞いた時、正直ホッとしました。これで済むのなら何てこと無いなと思ったからです。

   私    「うん、わかった。」
虐めグループ「あとこれを読め」

そう言って一枚の紙を手渡し去っていきました。
私は脱力感に見舞われその場に座ってしまい、手渡された紙に目を通しました。
私は目を疑いました。紙には次のような事が書かれてありました。

1・毎日必ず上納金を渡す。
2・サンドバックは抵抗してはならない。
3・誰の言うことにも「はい。」と返事をしろ。
4・タメ口を使うな。
5・弁当を食べてはいけない。
6・自分から話しかけてはいけない。
7・召使として精一杯努力しろ。
8・口外するな。
9・前を通るときは失礼しますと言え。
10・以上の事を守れなければ即処刑。

最後の「処刑」という言葉に私は恐怖を感じた

次の日から受ける虐めは強くなりました。
今まではどちらかと言うと無視や物を盗られるのが多かったんですがそれからは、
あからさまに殴られるようになりました。
朝教室に入ると髪を掴まれトイレで袋にされたり水をかけられたり鼻や口からよく
血を出したものです。顔は目立つからと言ってわき腹を殴られることが多く、何度も
地面に倒れ呼吸困難になりながら上から蹴りをくらいました。

夏休みに入り勉強合宿というのが始まりました。
そこは学校とは違い皆開放された感じで虐めも酷くなりました。

食堂のような所でも虐めを受けました。私のご飯は茶碗に半分の白飯だけです。
二日間で食べたご飯は約茶碗3杯程度。流石に空腹に耐え切れず食堂の係員さん
に頼んで残り物のご飯を頂きました。
当然合宿先で風呂に入れてくれません。私は雑用係を任され片付けや掃除をよくしました。
寝る時も床です。しかし硬い床でもゆっくり休めるので本当に落ち着ける貴重な時間でした。

二学期が始まってもいっこう酷くなりました。

或る日の弁当の時間のこと。
母親は毎日きちんと弁当を作ってくれているのですがいつものように食べさせてはくれません。
しかしその日はいつも以上でした。
弁当を机の上にひっくり返されその上に牛乳を撒かれ髪を掴まれ顔をその上に叩きつけられました。
しかし驚いたのはその後の事です。
一部始終見ていた担任が発した言葉です。
「おいOO(私の苗字)。ちゃんと雑巾で拭いとけよ。」

私は全てから見放されホントに絶望を感じました。
そしてこの頃からでしょうか、私の心の中に憎しみがこみ上げてきたのは。

教師とは全く何の力にはなってくれませんね。
別に助けを借りようなんて思いませんがこの人格を問いたくなります。
今までは虐めグループに対し恐怖の念しかありませんでしたが、段々仕返しという気持ちに変わって
いくのです。

二学期も終わりを迎え大分、虐めにも慣れてきました。
が私の怒りは決して風化することはありません。

そんな鬱憤たまったある日、いつものように私は痣が残るまで輪にされ暴行を受けていました。
そして虐めグループの副リーダーがある事を口走ったのです。

「こいつの弟もボコボコにしちゃおうか?えっ?」

私はこの一言で「こいつを殺らなければ弟がやられる。」と思いました。

しかし身体の大きい人ばかりのグループだったのでまさか正々堂々戦えるわけがありません。
その週の土曜、私は少し離れた街へでかけバタフライナイフとスタンガンを購入しました。
後から、何故思いとどまることが出来なかったか何度も自問しましたが、このときは弟を巻き添えにしようとした、あいつが憎くて仕方なく無我夢中でした。

二日後の月曜、朝っぱらから私はリンチに遭いました。(体育館の倉庫の中です)
約5~6分でしょうか、暴行され続け、私は今しかないと思いました。

ポケットに入れていたスタンガンで輪を作っている4人全員に反撃しました。
物凄い音とその場に倒れる虐めグループに戸惑いはしましたが中途半端にすると後が怖いので思うがままにしました。
3人は痙攣し、指や足先がピクピクしていたのを覚えています。しかしあと一人は上手く当たりませんでした。私は義務感とも言うべきか逃げ腰のその一人の首を目掛けて失神するまでスタンガンを当て続けました。
しかし本当の戦いはここからです。私は覚悟を決め体育館入り口にいるリーダーと副リーダーに制裁を加えようと思い、倉庫を出ました。しかし倉庫内の音は外にはなかなか漏れないようでターゲットの二人は、気づいていないようでした。

私はズボンのポケットに入れていたバタフライナイフを出し、まずリーダーに襲い掛かりました。
逃げられたらいけないと思い、太ももを切りつけました。
リーダーの叫び声が響き渡ります。と同時に登校してきた女子生徒の悲鳴も聞こえたような気がします。
人が集まる前にやらなければと(冷静でした)思い足を切りつけた後、胸板から腰にかけてナイフで
約50cmほどシャットやりました。血が滲み出てきてリーダーは喘いでいました。
とそのとき形相を変えた副リーダーが背後から肘鉄で背骨を攻撃してきたのです。
私は激しい痛みと意識が飛びそうになるのを耐えてカウンター気味に両手でしっかり持ったナイフで腹部を
思いっきり刺しました。ナイフが刺さったままそいつの口から血が出てきてその場に倒れました。
思っていたよりナイフは簡単に刺さりました。副リーダーは運良く冬服を着ていなかったからでしょう。
そのあともがく副リーダーの意識を飛ばすために1秒ほどスタンガンをあて私は倉庫へ逃げました。

3分ほどの出来事でした。倉庫へ戻った私は今までされた事と、弟を狙おうとした憎しみを倉庫に居る
虐めグループにぶつけ何度も何度も泣きながらのしかかって殴りつけました。

そして少しして私は誰かから口頭部を殴られました。体育教師でした。

その後はもうほとんど記憶はありません。
何日も何日も調書作成のためにしつこく質問されて私はもうその学校の生徒ではなくなり、鑑別所に入れられ幾多と精神分析をされ少年院に入れられました。

母親は倒れ精神科へ通院が必要となり半年起きに面会に来る父親はもうほとんど口を聞いてはくれません。

リーダーは全治1.5ヶ月で副リーダーは内臓からによる出血多量で意識不明の重体で一週間後に亡くなったそうです。

私は13歳にして人殺しになりました。

少年院の中で私は静かに暮らしていました。
プールの授業などは本当に楽しかったです。学校では顔を水の中に押し付けられ多くの水を飲まされ吐くこともありました。ここではそんな事はありません。

何人か友達も出来ました。しかし皆、決して自分の過去について話すことはありませんでした。
でもその友達は喧嘩をして何度も反省室に入れさせられていました。

(反省室とはほとんど光が入らず寝るスペースしかなく猫が出入りするような小さな小窓から時間が来れば
飯が出てくるだけ、というまさに静寂と孤独の空間でした。一週間居れさせられます。)

一年半が経ち私は外の世界に出ることが出来ました。
私は人殺しという荷を背負ってこれ以上親族に迷惑をかけないよう独りで上京し遅れながら高校へ進学しました。

父に学費を払っていただいたがやはり生活できないため朝昼は仕事、夜は学校という生活を続けました。

しかし、定時制の授業だけあってなかなか大学に合格できるだけの授業はしてくれません。
私は独学ながら頑張って勉強しました。

高校3年になろうかと言う頃、夜学校から帰りポストを覗くと珍しく手紙が一通入っていました。
父親からの手紙でした。

「いきなりですまない。
嫌がらずに最後まで読んでくれ。

昔から勉強もよく出来て何も習わさずにいたがスポーツも優秀でそんな息子を俺は何よりも誇りにしていた。俺はお前を叱った記憶はほとんどいない。それも信用をしていたためだ。
言わずもがな。お前は物分りが良かったから敢えて俺は何も言う必要はなかった。
母さんはあの日勉強を頑張るお前のためにと年末旅行を計画していた。
しかし連行されたお前の話を聞いた母さんは倒れ入院した。
もう何日も寝込んでやっとまともに話が出来るようになったのだが精神がいかれてしまい今度は精神病院へ行った。
この時、俺は正直お前が憎かった。我が子ながら俺の愛する母さんにこんな目を遭わせたお前が憎かった。

しかし警察の調査によって段々俺にも報告が来るようになった。
俺はそれを聞いたとき涙が止まらなかった。
もし俺がお前だとしても、やはり家族にそんなかっこ悪いとこ見せられないだろうからいえなかったと思う。
そんなお前に気づいてやれない俺には父親の資格はない。そんな事は今更という感じだが、何度も何度も面会のときに謝ろうとしたんだが、情けない俺は何も言えずにただただお前の話を聴くだけしかできなかった。面会が終わり部屋を出ると俺は崩れ落ち餓鬼のように泣いた。
地面に拳をぶつけ悔しさと辛さで居た堪れない気持ちでいっぱいだった。
自分の息子をこんな形でしか気持ちを伝えられない俺は本当に駄目な親だと思っている。
しかし、俺は今お前に会う勇気はない。俺は、かいまお前を憎みさえした。
見す見す息子が暴行受けているのを見逃す親だ。お前も会いたくはなかろう。

すまなかった。
金銭面だけしか援助してやれないが俺を許してくれ。
お前ときちんと会話したのはもう4年以上も前だ。
これだけ愛する我が子なのに会うことが出来ないのは本当につらい。
ひょっとしたらもう一生話すことが出来ないかもしれない。
しかし俺はお前を世界で一番の自慢の息子だと誇りを持って言える。
どんな事があっても自慢の息子だ。

雑筆で長くなってすまんかった。じゃぁ健康に気をつけて頑張ってくれな。」
父親の手紙は涙で所々ボールペンの字で滲んでいました。
私もその手紙を読みながら夜通し泣き続けました。
今までで一番父親を側に感じることが出来た瞬間かもしれません。
何度も何度も私はこんな息子を愛してくれている父親にお礼を言いました。

それから二年が経ち一浪し旧帝国大学に何とか合格することが出来ました。

大学では割りと自由に行動でき、充実していました。
家庭教師をしながらボロアパートで友達と同居していました。
そんなある日、私はポロッと前科があることを友達に口外しました。
あまり隠しておきたくはなかったんですが無意識の内に喋ってしまい私も同居している友人も一瞬、戸惑いはしましたが、そのまま会話は続き内心ホッとしていました。

翌日は日曜で特に用事も無く私はここぞとばかりに昼近くまで眠っていました。
少し寝すぎたと思いながらふと目をサマストいつもは狭いと感じていたアパートの一室が妙に広いのです。

辺りを見回すと一枚の紙切れと一か月分の家賃が置かれてありました。同居している友人からでした。

私の前科のことは触れていませんでしたが、明らかにそのことで出て行ったのでしょう。
一人の大切な友人を失いはしたのですが私はそれでいいと思います。
このように自分に対してしっかり気持ちを伝えてくれる友達が居たことは嬉しかったです。

それから半年が経った冬の日、故郷の病院から電話がありました。
私は新幹線に乗って雪の降る中急いで帰省しました。

もう病院へ着いたときは集中治療室で面会謝絶でした。脳・心臓疾患だそうです。

数日後、父は過労死で他界しました。結局手紙の通り父との会話は小学6年生の時が最後でした。

通夜、葬儀は速やかに行われました。
葬儀が終わりようやく一段落し、弟とゆっくり話す機会が出来たのです。
本当に久しぶりで色々謝らなければならない事もありこれからの事も話し合おうと思い声をかけようとした時、弟から、

「もう縁を切ってくれ。あと3ヵ月後結婚をするんだが呼ぶつもりはない。」

と言われました。私はこの一言でこの世の唯一の家族を失ったのでした。

仕方ないことかもしれません。犯罪者が同じ家族に居ればどれだけの迷惑がかかるかしれません。
弟のためとはいえ人を殺した事実は変わらないので私は素直に弟に従いました。
「迷惑をかけて申し訳なかった」
と言い、私はその場を去りました。
もう親戚も私に関わることありませんでした。

しばらく父の遺産と家庭教師のアルバイトと夜中の土方仕事で学費を払っていたのですが、流石に将来の不安もあり故郷の実家にかかる固定資産税も馬鹿にならないので親不孝と思いつつ取り壊すことに決めました。

久しぶりに実家に戻るとポストの中には「死ね」「犯罪者」「魔物一族」などの書かれた紙で溢れていました。
私にはいつ何処でも犯罪者というものを回帰させてくれるものがあります。

部屋に入るとひんやりした空気が私の肌を刺激しました。
昔、私が生活していた空間を目の当たりにしながら家族の笑い声が耳の中でこだまします。
昭和の頃から使われていた円い円卓は変わらず堂々と居間に座っています。

全て私が家族と過ごした最後の日と変わっていませんでした。

私は思わず泣き崩れました。
あの幸せな日々は一体何処へ行ってしまったのだろうか。
もう一度だけこの円卓で家族と夕飯を囲みたい。
幸せだった小学生の頃・・・。
後悔の念が込み上げてきてやっと離れていった家族を実感してきました。
独りだけどやっていけるなんて強がっているふりをしていましたが、私は今でも家族が好きだ。

私のせいで母は精神が滅入ってしまい衰弱死。
私のせいで父に心配をかけ無理をして過労死。
そして犯罪者の弟とレッテル張られ楽しい生活を失った弟。

みんな私の責任です。私は自分の大切な物を自分の手によって失ったのです。

私は決して戻らない家族と離れることが嫌で仕方ありませんでした。
その家族と語りつくせないほどの多くの思い出が詰まるこの家が恋しくて2、3日此処で生活していました。

しかし自業自得。私は家族と気持ちの上でも別れる決意をしました。
もうお別れです。生前全くお礼を言うことが出来なかった父に深くお礼を言い、私の事を本当に大事にしてくれて可愛がってくれた母に感謝の気持ちをこめたお礼をし、何も兄らしい事をしてやれず更に一生迷惑をかけてしまった弟にも謝罪をし、その家をあとにしました。

家は取り壊され、そこは草一本生えていない空き地と化しました。もう何も残ってはいません。

今、私には家族も親戚もいない。友達もいない。恋人もいない。
あるのは履歴書に残る前科と未だ消えることのない、いや一生消えることのない人殺しという代名詞。
自分の手によって決断したあの若き頃の事件。それも永久に私に付き纏うだろう。

私は中学生にして人を殺した。

院(大学院)の研究室でそれを知る者は私以外にはいない。
知る必要もない。私は一生独りで生きていくからだ。
家族の幸せと同級生の人生を破壊した私に命があるだけまだ神に感謝すべきである。
何も贅沢は言わない。勿論結婚などはしない。

私は凶悪犯罪者であり殺人者だ。

私は本来なら世のため弟のため遺族のため死ぬべきなのかもしれない。
自分でも誰のために生きているのか解からない。

もし後世があるのなら、私は家族の温かみを一生の宝物にするつもりだ。
もう家族の笑顔を失いたくはない。

私はまだ未熟でこんな形でしか虐めを止める術を知りませんでした。
しかし確実に虐めは無くなりますが、一生を変えてしまいます。
家族というのは身近にいると何でもない存在ではありますが、私は、
ある日を境に家族を失いました。
家族のいない、誰からも相手にされない孤独がどれほど辛いか解って
頂きたかったです。

ーーー
無理な仕事を頑張るのはプロじゃない。
無理な仕事を事前に無理と判断できるのがプロ。
2013-12-30 05:00