安珍と清姫の物語

安珍と清姫の物語  今から千年あまり昔の話。奥州白河に、安珍という名の年若い山伏がいた。毎年紀州の熊野権現に参詣のため、紀州牟婁郡の真砂庄司清重の家を宿としていた。 その庄司の娘「清姫」は、器量のよい女であったので可愛がって、戯れに妻にして奥州へ連れてゆこうなどと言ったのを娘は信じていた。
 清姫が十三歳のころ、安珍が例年のごとく庄司の家へ泊まった。その夜、眠りについた安珍は、芳しい香のかおりと衣擦れの音に目を覚ました。ほのかな灯りに目をこらすと、枕元に清姫がすわっていた。「清姫さま、どうなされました」「安珍さまに逢いとうて、お傍にいとうて」 幼い清姫は、ひざに手を置いたままいう。 安珍はこどもをあやすように、「夜、こんなところに、おいでになってはいけません。風邪をひきますよ」といった。 けれど、清姫は動かない。
 安珍は困り果てた。「私は仏に仕える身、妻は娶らないのです」 そういっても、清姫は(いやいや、)と首をふる。その姿は愛らしく、安珍も憎くは思わないが、夜更け部屋に忍び込んで来られてはと、困り果てて、とうとう、嘘をついた。「熊野権現に参詣をすませたら、きっともう一度、真砂へ戻って参ります。きっと」それを聞いて清姫は、やっとうなずいた。「きっとですよ、きっと」
 清姫は、熊野詣でに旅立っていく安珍をいつまでも見送った。 けれど、熊野詣でをすませた頃になっても、指おり数えてみても、安珍は、戻って来なかった。清姫は、居ても立ってもいられなかった。 実は、安珍は清姫を避けて、塩見峠を通って田辺へ抜ける道を選んだのだった。
「もしもし、旅のお方、これこれこういう姿の、年若い美しい山伏さまを、見かけませんでしたか」清姫は、街道を通る人の袂をつかんでは、声をかけた。「熊野から戻られる頃なのですが…」すると、旅人達は口々に、「おお。その人なら、もうとっくに、塩見峠を越えた頃じゃ」「ほんに清らかな山伏さんじゃった」という。
 清姫の顔色が変わった。「ええ、それでは約束を破って、真砂を素通りされたのか!」「裏切られた」 清姫はキリキリと唇を噛んだ。目は血走り、安珍を追って走った。 髪を振り乱し、着物の裾をつかんで、一心不乱に走った。 その姿に道行く人々は、「恐ろしや、あの姿はこの世の者とは思われぬ」「地獄から走り出たのか、これから地獄へ行くのか、ただ事ではない」と、道端で指さして噂し合った。
 真砂の里から、田辺、印南と、安珍を追って走り続ける清姫の草履は擦り切れ、足からは血が流れた。
「あ、あの姿は…」前を行くのは、確かに安珍だった。「安珍さま、安珍さまぁ」その声に振り返った安珍は、声も出ない。あの、可愛い清姫が、今は鬼女のような狂騒で、追ってくる。「わ、わしは 安珍ではない。人違いじゃ」
 安珍は、杖も背負った笈(おい)も放りだし、ひたすら逃げて、逃げて、無我夢中で、日高川のほとりまで来た。 清姫は、凄まじい勢いであとを追う。ようやく追い着き、声を掛けると、安珍の呪文で目がくらんだ。石に腰掛けて息をついていると、頭から下が蛇形となった。
 と、そこに一そうの渡し船が繋がれていた。安珍は必死で、船頭に手を合わせた。「船頭殿、恐ろしい鬼女に追われておりまする。向こう岸まで渡して下され」「なに、鬼女、それはかなわんな。さ、乗りなされ」
 清姫が、日高川の川岸まで来ると、悔しや、安珍が船で向こう岸へ渡って行く。「誰か、船を出して下され、私を向こう岸まで渡して下され」 清姫は、右へ走り、左へ走り、船は居らぬか、船頭は居らぬかと探すけれど、 誰も答えてはくれない。「悔しい、悔しい、人違いじゃ、安珍ではないと逃げていくなんて、卑怯者。 なんて、情けない。ええ、どこまでも追うて行かずにおくものか、 この川を泳いででも、追うてみしょうぞ」 裏切られた悔しさで、清姫の身体から、怒りの炎が燃え立った。
 「おのれ、安珍…」清姫は、あとを追って、日高川へ飛び込んだ。川に飛び込んだ清姫は、全身蛇体となった。
 日高川の川波を大蛇となった清姫は、向こう岸の安珍を求めて泳ぎ渡っていく。「まてぇ、安珍… 安珍…」 清姫は、無我夢中で、安珍を追っていく。
 一方、安珍は、来るときに立ち寄った道成寺に救いを求めて、寺の石段を駆け上がり、「助けてくだされ、助けてくだされえ」と、叫び続けた。 寺の僧たちは、何事だと集まって来た。「斯く斯く然々こういうわけで、鬼女に追われておりまする。 お助けくだされ、お助けくだされえ」
 寺の僧たちは、憐れな安珍の姿に、指さして笑う者、あほなことよと横を向く者、様々だったが、段々憐れに思えてきて、「さて、何処に匿うか」と額を寄せて話合った。「そうじゃ、鐘つき堂の鐘を下ろして、その中に隠れておればよい」「それがよい、それがよい」と、いうことになった。 寺の僧たちは、重い釣り鐘を下ろすと、その中に安珍を隠した。
 ほどなく、蛇と化した清姫が、ずりずりと道成寺の石段を這い上がり、「まてえ、安珍、何処に居るか」と、火を吐いて迫って来た。 寺僧たちは、肝を潰し、あちこち逃げ惑って、姿を隠した。
 大蛇となった清姫は、道成寺の本堂をのたうち廻りながら、安珍を探し続けたが、安珍は何処にもいない。 怒り狂って、境内に這い出すと、鐘つき堂の鐘が下ろされている。見れば、鐘の下に安珍のわらじのひもが、挟まっていた。
「おのれ、安珍! ここに隠れたな」 大蛇は鐘の龍頭をくわえて、きりきりと鐘を七巻半、しっかりと巻くと、尾で鐘を打ち叩き、口から火を吐きかけた。メラメラと鐘は火に包まれ、尾を叩きつける音と、轟々と燃えさかる炎は、僧たちを震え上がらせた。
 どのくらい経ったのか。やがて大蛇は、ずりずりと鐘から滑り落ちると、血のような涙を滴らせ、去っていった。あとには、焼けただれた鐘と、燃え尽きた安珍の亡骸があったという。

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 安珍と清姫 [1960]安珍/市川雷蔵清姫/若尾文子