うつ病についてもう少し細分したいと考えると
内因性、反応性とか
精神病性、神経症性、性格因性とか考えられる
その昔には状況因性とかの言葉もあった
うつ病という言葉の指すものが
曖昧なまま拡大してしまったので
それもこれも一種のうつ病でしょうとなってしまう
骨折で言うと
骨そのものが脆弱で普通の生活をしていたのに骨が折れたという場合と
すごく重いものが腕にぶつかって腕の骨が折れたというのは
全く別物であるはずだが
骨が弱い人も、骨折にあたっては、なんのエビソードもないのかといえばそうでもない
生活して仕事をしている限りはそれなりのストレスはあるものである
そのストレスがどの程度かというのも評価は簡単ではない
もちろん、話を聞いているうちに形成されてくる判断というものはあるのだけれども、
その判断の客観性を示せとか言っても、それは難しい
内因性、外因性の区別をすると、
外因性は原因が外側にあるというのだから、とりあえずそちらで考えたくなるのも無理はない
内因性うつ病のひとつの目印として「自責」という項目はあるので、
原因は外部にあると主張するなら、その分、内因性の可能性は低くなるだろう
しかし時間経過というものがあって、
最初は内因性で始まったとしても、時間が立つうちに外因性、反応性、性格因性の要素が加算されてくるものだろうと思う
その変化の様子を仔細に検討することはなかなか難しいものだと思う
ストレス脆弱性説は分かりやすいのだけれど今後どうすれば良いのか難しいところがある
脆弱性を改善するにはどうすればいいのかよく分かっていない
何かの体験が有効な場合があるが
人によってはそれはトラウマになる
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現状では「うつ病」の原因による区別をしない主義のようで
躁病のあとのうつ病も
単極性うつ病も
シゾフレニーのあとのうつ病も
産後うつも
それから反応性うつ病も
特に区別なしにうつ病と呼んでいる
ただ性格障害に伴ううつについてはうつと呼ばずに性格障害と呼んでいるようだ
こんな事情があるので、
1.かなり生物学的な次元のうつ病
と
2.かなり心理的イベントに起因するうつ病の区別を
現在症のレベルで区別できないかという問題がある
生物学的ならば身体症状が優位だろうかといえば多分そうではない
憂うつ、不安、悲哀についてはどの人も口にするので
可能性があるとすれば、喜びの喪失、興味の喪失などの項目ではないかと思い
あれこれ聞いてみたが
喪失反応のあとでのうつで、喜びの喪失、興味の喪失などを訴える人も多いようで
多分統計的に処理しても何も出ないだろうと思われた
これは、反応性と思われる例でも、もともと生物学的脆弱性が備わっていたのではないかと推論することで
説明できるのかもしれない
生物学的脆弱性のない人の場合は、反応性のうつになる状況があったとしても、
医療にかからず、なんとかやり過ごしているのだろうとも考えられる
そうかもしれない。しかしまたそうでないかもしれない。
結局、内因性と反応性は、現在症のレベルでは区別ができないものなのかもしれない。
成因が違うものならば、どこかで区別できるだろうと考えるのだが。
シュナイダーの場合は、生機的(Vitale)抑うつと呼んだけれども、Vitaleはよく分かる感じはするが、
言葉で説明するというと簡単ではない
精神病院で10年くらい勤めていれば
なんとなく体得されるものだろうと思うが
その違いを明確に定義できない
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見方を変えて、内因性は重症で、反応性は軽症だろうとする考えはどうだろう
最近は内因性うつの軽症化が言われていて、その点では鑑別は簡単ではないだろう
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ほんとうの意味で憂鬱になるには、かなりの精神の成熟を要すると思う
怒りや喜びはむしろ原始的だし子供にもよく見られる
文学史で憂愁とか憂いを表現の主題とするのはある程度成熟してからだと思う
個人も同様
子供の憂いといっても、それは子供なりのものでしかないだろう
性的な成熟と関係しているのかもしれないし
死や時間を意識することと関係しているのかもしれない
子供にもあるものは怒り、不安、衝動である。
これらを主徴とするうつ病については、実態は不安症や恐怖症と言えるものかもしれず、
うつ病と呼ぶのが適切か、問題がある。
何かが嫌で嫌いで不安で怖くて近づきたくなくて目をつむっていたい。
その結果として閉じこもりになることもあるだろう。学校や会社に行かなくなることもあるだろう。
その自体を一言で元気がないと言い換えて、
それならば、いま流行のうつ病だろうと言い出しそうである。
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先日、脳血管障害後遺症の人が高次脳機能障害の検査に来院した
妻から、脳血管障害のあと、他人の心がわからなくなってしまった、これは後遺症の一つではないかというのである
脳血管障害の前にはそのような傾向はなかったという
もしこの人が本当に他人の心が分からない状態で、
しかも、随伴する他の症状がない、純粋型であれば、
脳の機能を検査して、どのあたりの機能が停止しているかを調べて、
他人の心が分かる中枢などを特定できそうである
同じ事ははるか昔、脳血管障害のあとのうつ病について調べられた
脳血管障害のあとで、うつ病になる人は多い
ひとつは反応性のもので、身体機能が失われたり、予定していた未来が失われたり、家族関係に変化が生じたりなどの要素が考えられる。
しかしまた一方で、生物学的な要因として、うつ病になる責任部位があって、そこが破壊されたからであると考えることもできそうである
そこで、脳血管障害のあとでうつ病になった人をたくさん集めて、障害部位に共通性はないかを検討した
結果としてはそのような特殊な部位は見つからなかった
今回の他人の心がわからない状態についても、脳の責任部位については多分見つからないだろう
今回の例で調べたところでは、いろいろな脳機能の低下が見られているのだが、
日常生活では明らかになっていないだけのようであった
高次脳機能障害と表現するべきか、あるいは経過によっては、
あるタイプの認知症の始まりの症状としてよいものなのかもしれない
脳血管障害が発生してしばらく入院している間に
認知症のプロセスがやや進行したのかもしれない
あるいは従来のとおり、これを脳血管性認知症と表現しておいていいのかもしれない
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話は元に戻るが、
内因性うつと反応性うつはやはり対極に位置するもののように思える
だからそれを区別したいし、区別することには意義があるだろう
ひとつは精神病であり、共感を拒む
ひとつは非精神病であり、容易に共感できる
むしろ共感をあてにして、反応性うつ病を周囲に見せているのではないかとも考えられる
たいていはどちらの場合にも、神経症性のうつ成分が重なって出現することになる
昔ならば、その重症度によって、反復の頻度によって、
つまり、うつの波が深く、頻回であるということで区別できるような気がしていた
しかし現在は波の深さと頻度によっては区別できないように感じる
これは私が診療している地域の特殊性にもよるのかもしれない
あるいは病院精神医学と外来精神医学の違いの側面もある
考えを変えて、
反応性うつ病が根本であり、
内因性うつ病の場合には、脳の内部で異変が発生し、そのことが、たとえば配偶者の死と同じ効果をもたらすと考えるのはどうか
こう考えると、うつ病の原因は反応性であり、つまり、喪失反応であるということになる
昔の精神分析流である
喪失反応が外部で起これば反応性で、脳の内部で起これば、内因性であると定義できる。
外部喪失反応がA→B→C→D
とすると、内因性のプロセスが脳内で起こる様子は
P→B→C→Dとでも表現できる。
つまり、途中から全く同じ回路を使うので、症状としては全く同じ事になるのである。
とすれば、責任病巣であるPがありそうなもので、
あるならば、それを外科的にでも処置して、iPS細胞からその部分を作って移植すればいいことになるのだろう、
というような考えになるのだが、
今のところ、そのように、パーキンソン病のように考えられてはいない
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妄想的認知の中で大きな喪失体験をすることがある
たとえば、昔から言われている、取り返しの付かない罪を犯してしまったという妄想、
お金がなくなって貧乏になってしまった妄想、不治の病にかかってしまったという妄想、
つまり罪業妄想、貧困妄想、心気妄想
これらの場合には、主観的には大きな喪失体験になるので、
その後の反応としてのうつ病はよく理解できるところだ
根本には妄想があるが、それだけを別にすれば、あとは普通の反応性の病態として理解できるということになる。
妄想を抱き訂正できない部分は妄想病であるが、
その後の部分は内因性うつ病ではないことになる。
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反応性うつ病の場合に、
通常ならば呈するであろう程度のうつと、
それを逸脱して、過剰にうつを苦しんでいる場合があり、
それを区別したいのだけれども、容易ではない。
厳密さを要求しないなら簡単であるが
学問的にというと難しい
肉親との死別、ペットとの死別とか、引越しとか、考えてみても、
それぞれの場合で内容は違うわけだし、
内容をよくわかったとして、悲しみ方の流儀も個人によって様々なのであるから、
この程度のうつはイベントの内容に照らして正常反応、
しかしこれ以上の反応は異常反応というような区別が
上にも書いたように、簡単だけれども、難しい。