” 値踏みする目線 考えるところあって、去年あたりからまた改めて看護学を勉強しなおすことになった。(それでこちらの方でまとまった文章をあまり書けなくなっていたのだが)その中で死生学を取ることになり、レポート作成のため必要になって今読んでいる資料に「ラモン・サンペドロの遺書(スペイン語)」というものがある。これは2004年のスペイン映画「Mar adentro」(邦題「海を飛ぶ夢」として日本では2005年に公開)のモデルになった、スペインで最初に尊厳死を求めて訴えを起こした人物の遺言である。ラモンは25歳

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値踏みする目線
考えるところあって、去年あたりからまた改めて看護学を勉強しなおすことになった。(それでこちらの方でまとまった文章をあまり書けなくなっていたのだが)その中で死生学を取ることになり、レポート作成のため必要になって今読んでいる資料に「ラモン・サンペドロの遺書(スペイン語)」というものがある。これは2004年のスペイン映画「Mar adentro」(邦題「海を飛ぶ夢」として日本では2005年に公開)のモデルになった、スペインで最初に尊厳死を求めて訴えを起こした人物の遺言である。ラモンは25歳のとき海の事故で頸椎を損傷し、首から下が麻痺した状態で「29年4ヶ月と数日間」(遺書より)を生きた。わたしはその遺書を読みながら、あの話に似てるなあ、と作業療法学生だった頃、講師の理学療法士がリハビリテーション概論の最初の講義を始める前に挙げたある症例を思い出した。
「20代前半の女性、恋人とドライブ中の事故で第7頸椎損傷、首から下はまったく動きせん。運転していた彼氏の方は即死でした。彼女は自分がこれ以上の機能改善が見込めないことも、この先一生他者の介護の手を必要として生きていくしかないこともわかっています。あなたはこの患者のリハビリテーションを担当することになりました、しかし患者は何もできなくなった自分にはもう生きている価値などないから死なせてくれと言っています。この患者にどう声をかけますか?」
18歳や19歳のわたし達に、一体何が答えられただろう?わたし達は病気や不慮の事故などで障害を負った人たちを再度自立した「生産性」のある状態に戻すことこそが是であり、それがリハビリテーションであると当時は何の疑いも持っていなかった。特にわたしの専攻していた作業療法はOccupational therapyという名前の通り、理学療法で動けるようになった身体に生産的価値や意味を見出していく社会復帰へ向けた職業訓練的な要素の強いものである。おりしも時代はバブルの真っ最中であり、いかにして多くの稼ぎを上げるか、いかにして人より多くを持つかが「よい生」たる条件の大部分を占めると信じる人は多かったし、そんな時代に地味すぎるほど地味で堅実な選択をしたはずのわたし達の間にすら、そういう空気はどこかしらあったはずである。果たしてこういう「何もできなくなった」人が社会の中でどれだけの役割を果たせるのか、役割の小さい、もしくはない人は生きていなくてもよいのか。
しかし現場に出れば程なくわかることだが、リハビリテーションの対象となる患者というのはほとんどが生産や経済活動などの社会的役割を一通り終えた老人の、脳血管障害の後遺症が主であり、かつてのように事故や病気で手や足に障害を持ったまだ若い人たちを回復させ(また労働し納税できるようにして)「社会復帰」させることが主であったリハビリテーションというものから、昭和50年代の終わりごろにはもうすでにフェーズの変化を迎えていた。現実的な問題として、以前なら間違いなく助からなかった人たちもかなり救命できるようになってきていて、その結果後遺障害の度合いの高い人も増えてきていたし、そんな高度の障害があっても「生き延びる」ことができるようになってきており、もう平成に入ったばかりのその頃から医療費の増大は問題化してきていたのである。ならば限られた「社会資源の節約のため」により手間のかからない状態を保つことがリハビリテーションの目的なのか?そうではないはずである。
「わからないでしょう?30年近くこの仕事をしている私にもまだわかりません。ただこれは皆さんが医療というものに足を踏み入れた以上、この先何十人何百人と患者をみて、時代や自分自身の人生の変化とも向き合い、20年30年かけて考えていかねばならないテーマです。これは常に覚えておいてください」
彼はもしかしてわたし達に「社会復帰」や「生産性」「生きる価値」をもらたすリハビリテーションというものを教える前に、わたし達医療者ですらややもすれば陥りがちな他者の「生の価値」を当然のように値踏みすることの危うさ、傲慢さを指摘していたのではないかと最近思うようになった。そういえば彼自身も身体障害を持ちながらも、日本にまだ理学療法士・作業療法士の資格がない頃からリハビリテーションの普及と教育に携わり、そしてPT・OTの国家資格化に大きく貢献した人でもあった。彼もまた、身体障害者である自分にも社会における「生産性」が(それも人並み以上に)あることを、生きるに値するだけの人間であると示そうとしてきた頃があったのではないかと思う。
今わたしは遷延性意識障害の患者ばかりの病棟で働いている。ラモンやその症例に出てきた女性はまだましな方だと思えるような状態の患者ばかりである。正直な話、この人たちが人工呼吸器をつけ、胃ろうやCVで生き、身体一つ動かすのにも何人もの人の手を要して、そして今日一日を生き延びるためにどれだけの「コスト」がかかるのか、そしてあと何年かかけてこの人たちが消費する「コスト」は、果たしてこの人たちがそれまでに持っていた「生産性」に見合うものなのだろうかと考えてしまう自分がいる。しかしわたしはそういう「値踏み」をしてしまう自分になんともいえないはしたなさを感じているのも事実である。はしたない、が妥当な表現であるとは思えないが、そうとしか現時点では表現しようがない。まだもう少し、この感覚の正体を考えていく必要がありそうだな、と思う。"