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世の中にある全てのものは「誰か」に向けて作られている。
自分が、ソレを気に入らなければ「ああ、これは俺がターゲットでは無かったのだ」と思えばいい。
既製品の服を買ってきて、俺の体系と合わない。とグダグダ言うならばオーダーメイドすればいい。
ネガティブキャンペーンやってる場合か。
遊びもしないゲームを、読みもしない漫画を、興味もない声優を、知りもしない議論を。
上から目線で語って悦に入るのはどうか。
既にある物に対してああだこうだ言うことは、とても簡単だ。
自分が作れもしないゲームを、描けもしない漫画を、出来もしない活動を、上から目線でああだこうだ言うのは自尊心を満足させる。その実自分は何者でもない。
安すぎるプライドだ。プライドの使い場所が違う。
甚だしい自我の肥大は見ていて不愉快、というか哀れに感じる。
そんなところで、プライドを満足させていては、帰着するところは何も成せない人間だ。
だから、現実を直視せずに、安いプライドを満足させ続ける。
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批評家気どりの恥ずかしさ、哀れさはどこから来るのか。
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自分は決して批評されない安全地帯から、他人を批評している。
自分は何も作りだす必要がなくて、ただ消費して、批評していればいい。
そのような、完全消費者、を考えていた。
しかし、もう一度考えてみると、この種の批評家は、消費者であって、
お金を出して消費することで、文化に参加しているのだと思い始めた。
彼らは外部に存在する批評家ではなくて、
内部に取り込まれている関係者であり、
高額のことは少ないとしても、出資者である。
そのような参加の仕方があるのだと考え始めている。