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震災直後のタイムラインには、特殊なムードゆえの感情の揺れは差し引いても、思考停止としか思えない発言がしばしば無防備に現れました。
中学生のタレントがブログに綴った冗長で何の変哲もない原発批判の文章を、メジャーな文学賞も受賞している作家が「地震発生以来もっとも知的な文章」と評 したり、「息子よ。」というタイトルも内容も無用に感傷的なエントリを、批評やコメントで飯を食べている人たちが手放しで褒めたり。ネット的な言辞への免 疫が乏しいのか、ヒューマニズムをまとったテクストが目の前に現れると我を失って涙腺をゆるませる。そうした浮き足立ちぶりに、こういう状況においてこそ そうした人々が冷静な視座を提供してくれるものと思っていた私は不安を覚えずにいられませんでした。
ツイートの拡散が、アジテーションの機能を内包していることへの意識も希薄なように見えました。「自粛はおかしい」というのは地震後1週間くらいは説得力 をもっていましたが、集団でそれを言い出すと無言で自粛を強いるのと同じベクトルになりかねない。それを多くの人が自制もとがめもしないのは不思議でし た。
江戸時代じゃあるまいし、花見「禁止令」など都知事は出していないのにマスコミの短絡的な記事表現に煽られて反発し、だったら意地でも花見をしてやる公園集合!とか呼びかけたりするのも理解に苦しみます。同調に同調で打ち返してどうするのかと。
アエラの表紙の件もそうですね。見た瞬間に「この状況でこれはないだろう…」と思いましたし、ツイッターで沸き上がった批判のほとんどは的を射たものだっ たと思います。しかし積み重なっていく批判そのものが同調圧力となって、雑誌そのものや新聞社への憎悪にも転化していくのは寒気がしました。
同じ週で、対照的にポジティブなメッセージを打ち出した週刊ポストがその対比として称賛され、翌週以降になったら今度は科学性や客観性に立脚しなくてはいけない経済誌までもが「がんばれ日本」のようなカバーワーズをつけてきた。付和雷同もいいところと感じました。
とりわけ、新聞・テレビ・雑誌などと比べてツイッターで目立ったのが二項対立や二元論です。科学は黒か白かでは断じられないという前提が無視され、「原子 力」と「原子力発電」と「原子力発電所」がごちゃまぜに論じられた。絶対的な根拠もないのにひたすら安全性を強調する人々がいる一方、客観的なデータでは なく恐怖心を煽る言葉で危険を主張する人々がいた。
官邸や東京電力や原子力安全保安院の姿勢や対応に不信と怒りをいだくのは当然と思いますが、それはジャーナリストやメディアが科学的リテラシーを無視して いいという免罪符にはなりません。「御用学者」と批判するならその人物と電力業界などの関係性ではなく、学者が言っていること(言わないこと)の内容が批 判されるように導いてほしい。陰謀論を煽ってどうするのかと。
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