“「中立な報道なんて意味がない。ジャーナリズムは反権力でなければいけない」なんて事を何処ぞのバカな写真家が言っていたけど、大切なのは「正しい報道をする過程で『反権力になる事も辞さない』姿勢」であって、初手から反権力を標榜するのは本末転倒だって事。目的を履き違えた報道≒捏造だよ。”
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とはいえ、中立を保証する学者や事実関係の把握や歴史の構築や、そんなものの権限は圧倒的に権力側が握っているので、「中立」の意味が分からなくなるのが現実である。権力側は、歴史も、事実も、科学も、価値判断も、左右できる立場にある。
そしてその「正しさ」を、上から下ろしてもらって、さらに下に報道することが現実の「報道」なのだ。
たとえばNHKの日曜討論会で何人かの人が呼ばれて議論する。客観的で公平中立な議論が進むはずであり、一方の立場から見れば、客観的、公立中正なのであるが、他方の立場から見れば、偏向そのものである。「正しい報道」も「正しさ」を決めるのは権力側である。
こうした構造から離脱することは難しい。自分の立場は正しさとか常識とか公平中立とかであり、歴史も科学も法律解釈にしても、どの側面から光を当てるかの権限を握るということが権力を握るということそのものなのだと思う。
日本国の総理大臣がアメリカの不興を買い失脚するのは、権力の源泉がどこにあるかを示している。
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歴史的に見ると、何が正しくて公正中立であるかをエリートたちが決定してきて、かなりまずいことも起こってしまい、
結局、価値判断も、客観性も、学問的真実も、科学的真実も、全部ひっくるめて、
多数決でいいじゃないかということになり、
大学者も学のない人も、一人一票の投票で決めようという話になった
ところが棄権する人が多くて、組織票がモノを言うようになり、選挙結果そのものが
客観的でもないし構成でもないものになりつつある
住民投票は投票率50%を超えないと、民意を反映したとはいえないので、結果を調べずに破棄してしまうという自治体が多いが、
そんなことを決めている首長とか地方議会そのものが50%以下の投票率で決まっているという
大変に皮肉な話である
最近の情勢では、固い組織票が真実と公正と中立をあらわすものと、暫定的にみなすほかはないようだ
ときどき「風」が吹いて、民意が大きく揺れるのだが
客観性、公正、中立、真実が大きく揺れるものでもないので、困ったものだ
というわけで、やはり学識経験者をあつめた諮問会議を使おうということになり、
何が正しいのかは、権力側に保持されたままになる