進化論的思考

進化論的思考にまつわるあれこれを書いたところ
マンションの設備点検とかで
ネットが不通になっていて
記録したつもりが全部消えてしまっていた

少しは覚えていたので
簡単に書いたら
またしても無線ランがつながっていなかった事情で消えてしまった

それでもやはりどうしようもなく暇なので書くことにする

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進化論的思考と考えたのは
生き方の戦略としてどのようなものがいいのかなと考えたことに始まる

書店に生き方指南の本がいつでもたくさんあって
こんなにみんな悩んでいるのかなと不思議に思う

それぞれで主張は違うわけで
ということはどれがどんな場合に正しいのかなどの検証実験ができるはずだと
自然に考える

この場合に、生き方の意味とか価値とかには言及しないでいいことが
進化論的思考のいいところだと思う
時間がたった後に生き残っているのはどれか、これだけである

ハエでもカエルでもDNAの歴史として考えればヒトと同じだけの時間を生きてきたわけで
適応戦略としてはしっかりしているものなのだと思う

人間の場合にはDNAの話の他に脳の話が入ってくるので一挙に複雑になる

DNAの環境への適応については数字に置き換えて計算するということで
利他的行動を説明したりしてかなりの成功をおさめている

進化論的思考は
結局生き残ったもの、子孫を残したものが価値があったという
逆転の発想なのでなかなかすっきりしている

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書き直していると、考えた順番に出てこないので話の流れができない
変な感じ

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どんな生き方がいいのだろうと考えて
たとえば
なるべく楽をして得をする生き方
懸命に努力して成功を大きくする生き方
みんなと仲良くする
なるべく長生きする
一族の繁栄のために尽くす
などがあると思うが
どれがいいのだろうと思い

当然のことだが
これらのテキトーなミックスがいいに違いないと思う
その場その場でやりくりして、一見、原則も何もないように見える

しかしそんなことはない

現実に観察してみると
一貫した原則など持たないヒトの方が
この世界でよく発展していると思う

教会で神について考えたり生き方について考えたりしているヒトよりも
牧師さんの顔色を気にして気に入られているおばさんの方がよく適応しているのだろうと思う

大災害があったとして
生き残るのはきっとそのようなおばさんに違いないと思うのである

ということは、どういうことだろう
よい生き方を実現しているのはおばさんなのである

多分、人生にはいくつかの時期があって、おばさんはその時その時で何か考えてきたはずであるが
周囲からも分かるような一貫性はないだろうと思うのだ

しかしおばさんは人生の細部でいちいち選択をして生きてきたはずで
自分では気がつかないながらも
一貫して流れている上位の原則があるに違いなのである
多分、多くの人には『おばさん的生き方』と表現すれば伝わるのだと思うけれども
それは論語のような短いフレーズにすることもできないような何かだろうと思う

どうしてそれが難しいかは、選択の内容は時と場合によるのであって、
言葉で言えるような普遍的な原則ではないらしいということである
つまり言葉を超えた普遍的な原則

言葉で上手く言えないながらも何かあるのだというあたりを
上位のアルゴリズムと表現しておくとして
おばさんにはたしかに上位のアルゴリズムが内蔵されているのである

嘘をつくのは悪いことだがこの場合にはいい
裏切りは悪いことだがこの場合にはいい
そうしたいちいちをこの上位のアルゴリズムが決定しているのだろうと思う

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さて、そのような上位のアルゴリズムが
唯一というはずはなくて、多分複数あるのだろう
その中でたぶん選択と淘汰という進化論的メカニズムが作動しているのだろう

そう考えると
脳が内蔵しているアルゴリズムではあるがかなりDNAの側に近いものなのだろうと推定できる

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そこまで考えて、しかし、それらのアルゴリズムも、進化論的にいう限り、脱価値的である

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ある局面でクリティカルに、脳の原則とDNAの原則がぶつかることがあると思うが
上位のアルゴリズムはそれも多分クリアー済みだろうと思う
あるいは、悩んでも、一晩も続かない

そのような健康なアルゴリズムである

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ハエやカエルも歴史の中で人間と同じ時間、生き残って現在に至るのだから
大変に強い原理がDNAに内蔵されているのだと思う
まあ、正確には、環境が根本的なところで変化がなかったということなのだろう

ところが人間の場合にはここ最近で大幅に変化があって
これまでの生存戦略で大丈夫なのかと考えさせられるところはある

基本四つ足の構造なのに二本足になったり
出産が困難なのに脳が大きくなったり
そのほかにもいろいろ矛盾が噴出している

それは基本設計をそのまま使わずに
応用的に使おうとしていることに原因があるのではないかと思う

脳の仕組みなどもそうで、徹底的につぎはぎで、古いものを何回も流用して使い回ししようというもののようで
一度思い切って基本設計から変更した方がいいのにと思うが
古い資産を使い続けるという観点から見れば不連続なこともできないという
最近のPCのソフトのような話になっている

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適応戦略の話でいえば
最近は好きなことを専門にしない生き方の方が意味があるのではないかという話を聞いた
たとえば美術の才能とか音楽の才能とか学問の才能とかがあるとして
現代ではそれらをマーケットにのせることで生活費に変えることができる
マーケットはマーケットの都合があるのでいろいろと制約が付けられる
映画の脚本を書くときには
主役の人気が出るようにどうしろとか
スポンサーの意向に配慮しろとか
15分に一回は何かをどうかしろとか
いろいろとあって、その条件の中で話を作るので
全くもってひどい妥協の産物なのだと嘆きを聞いている

音楽もそうで、売れる音楽を作るということ自体大変なことだけれども、
自分の書きたいのはそういうやつではないといっても、
周囲はそれを許さない
ヒットメーカーである限り、ヒット作を書かないといけないし、
周囲は、作家の高尚な趣味なんかに付き合ってはいられない

そんななかで、最近のP2Pの動きである
趣味の合う人同士が共有すればお金もかからない
会社が存在しなくてもいいし、音楽会社の社員は存在しなくてもいい

資本主義とは関係なしに
勝手に作って勝手に共有して楽しむ
これは大変健全なのではないかと思う

生活費は別に考えればいいのであって
所有している山林から稀少元素が出たり
すれば問題は解決である