経過診断にまつわる話

DSMは原則として経過診断をしないから
躁うつ病の場合のように
経過から多くの情報が得られる病気の場合にはDSMの運用もうまく行かないことになる

しかしまた経過診断はクレペリンの時代から怪しいものではあった
なぜなら、回想をどの程度まで信じられるか
回想している人は現在精神の病に覆われていて記憶も変質しているかもしれない
家族や友人などの証言は有効だけれども
しばしば利害関係者である場合があり、その点でやはり記憶の改造の可能性が多いにある
ニュートラルな立場であれば、他人の過去などにそれほど関心はないし、記憶もしていないものだろうと思う

家族による性的虐待がありました
という話が色々と問題のある話であったことはひとつ時代のスキャンダルとして語られている
これもまた経過の扱いに関しての教訓だろう

クレペリンの何が怪しいかといえば
本質的に経過診断をするならば
全経過を終了した後でなければ確実なことは言えない
全経過を終了していない限り暫定的な診断でしかない
しかしそれは医学の趣旨に反する
医学の診断は予後の診断なのでありどのような治療が有効であるかの判断なのである
全経過が終了したあとでの診断というものはがんの病理標本による確定診断のようなもので
死後に確定するものである

考えてみれば身体の病気でも本質的に確定するのは
死後の病理検索によるものであるから精神の病の場合と同じなのだろうとは思うけれども

つまり
1.状態像=現在観察される状態
2.経過=症状の時間経過
を考えるとして、
理想的には「1.状態像」から「2.経過」を診断することができるようにしたいわけだ
しかし
1.状態像からはなんとも言えないという場合が多く
たとえば「現在うつ状態である」ことからは、単極性うつ病かもしれないし、双極性障害かもしれないし、統合失調症かもしれないし、生活史に反応性のうつ状態かもしれないし、あるいは甲状腺機能障害などの身体病の部分症状かもしれないし、自己愛性格などの性格障害の表現かもしれないし、単に詐病かもしれないし、勘違いかもしれないし、いろいろな可能性がある

その中から可能性を絞っていくのだが
それはそれほど客観的で単純なプロセスでもない

たとえば、以前は性格障害のいろいろな類型が言われていたものだけれども
精神分析学派の凋落によって境界性人格障害の問題なども背後に退き
生物学的精神医学の興隆により
双極Ⅱ型とかⅠ型とかの可能性が論じられ
また発達障害の可能性が論じられるなどの流れになっている

リチウムとかラミクタールは双極性障害専用の薬だけれども
他の多くの薬は統合失調症やてんかんの薬の適応拡大の結果として使用されている
適応拡大は製薬会社にとっては便利な生き残り策であるからもちろん最大の努力をする
その場合、躁病に対して効果があるとの検定はしやすいという事情もある
なにしろ決定版の薬がないのだから
大規模検定をすれば何とかならないでもないのだろう

そんなわけでアメリカで躁病に対しての適応が取得されて
そうなるとアメリカでは盛んに「実は躁うつ病が隠れているのではないか」との議論がなされるようになる
そのような論者が講演会に招かれる
躁病が増えているという議論ではなく
今まで見落とされていたというタイプの議論なので
年寄りの医者はああまたか、いつもの振り子が振れていると思うわけだ

そして宣伝が行き届いたと見えて
最近では患者さん自身が製薬会社の宣伝パンフレットと同じ事を言うようになっている
その場合は患者さんが暗に欲しがっている薬は明白なのだ
その事を狙ってメーカーは宣伝しているのだから当然と言えば当然であるが

もうひとつおかしなことは
双極Ⅱ型か境界性人格障害かとの議論で言えば
原則から言えば
生物学派が双極Ⅱ型と言い
心理学派が境界性人格障害と言いそうなのであるが
そうではなくて医者の中の精神病理寄りの人が双極Ⅱ型とか言っていて
その人達はアキスカルの論文を読んでいるだけで実験なんかしない人たちで
どちらかと言えば文献屋である
文献屋で文章が得意な小説家のような人たちが
なぜか生物学的な概念をいじくっている

もっと文献専業であるはずの心理系の人たちは
最近は分析を捨てて認知行動療法に熱中している
密室で批判を遮断して何かしているので誰にも何も言われない
あるいは肯定されることが保証されている場面でのみ何かを語る
誰かを説得しようとする気力もない

説得する気力などなく
相手が肯定してくれるかどうかに敏感になっているだけのようだ 

盛んに手首を切って写真を撮って手記を綴り
出版したたりして
有名人になっていたのに
BPDという病名自体が、本当はBPⅡなんだって、とかいわれても
もう人生は取り返しができないところまできているでしょう

ところがおかしなことに
古い本を読んでいるのか
ネットの古い部分を読んだものか
昔の名前で訪ねてくることもあるのである
それもまた時代のおかしさだと思う

生物学と心理解釈学の間の振り子は振れ続ける

生物学内部でも状態像と経過の間で振り子が振れる

私が生きている間はたぶん
ただそれだけのようでもある