社会的に容認できる程度の犠牲とは

原発の議論で、危険があり、実際に被害もある、犠牲者も発生するとして、
その割合は、自動車の利用に伴う交通事故の例を引き合いに出して、
だから、社会的に容認できる程度の被害であると結論するようだ。
そのくらいの犠牲はしかたがないんだという議論。

一方では、一人の命を助けるために医療従事者は極限まで疲労し、
オペとか透析とか、また高価な薬とかを使用している。
こちらの局面では、医療経済のためには仕方ないという話にはならない。

自動車も原発も製造して儲けたいから、という理由が先にあって、だから犠牲者もやむを得ない、
「少数の」犠牲は容認されると結論される
一方では、医療業界は業界としてたとえば高価な薬を売りたいから、一人の命は無限に大切だという結論になる

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社会全体の便益のためには
少数の命の犠牲はやむを得ない、って、理屈になっているのかな。怪しい。
あまりにも野蛮で、あまりにも想像力に乏しく、共感性が欠如していて、あまりに頭が悪い。

神様の決めた寿命だからしかたがないとか
自分で決心して何かの犠牲になるとか
そういうことならば理解もできないではない。