「羅(うすもの)の表紙は、疾く(とく)損ずるがわびしき」と人の言いしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下はつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうず)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。第82段:徒然草
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『薄い布で装飾した書物の表紙は、すぐに痛んでしまうのが困る』と人が言った。和歌四天王のひとりである頓阿はそれに対して、『表紙の薄い布の上下がほつれてから。螺鈿細工の巻物は軸の貝が落ちてから。その後から味わいが出てくるのだ』と答えた。その言葉には、素晴らしい発想だと感心してしまった。
何冊かで一つにまとめられているシリーズものの草子(書物)が、同じ体裁(デザイン)でないのは見にくいと誰かが言ったが、弘融僧都は『本をすべて同じような体裁に整えようとするのは、センスのない人間のすることだ。不揃いのほうが良いではないか』と言った。この考えも、面白いと思った。
『全てをなにもかも、整えてしまうのは悪いことである。やり残した部分を残しておくというのが、(未来でも完成させるまでに時間がかかるので)生き延びさせる工夫なのだ。朝廷の内裏を造営する時にも、必ず造り終わっていない部分を残しておく』と、ある人が申し上げていた。優れた先人の書き残した書物にも、章段が欠けていて未完成の部分がある。
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わざと途中でやめておく、というのも、貴族のやりそうなことだ。
何が風流であるかを、ときどき変えておかないと、下層の者が、風流で追い越してしまう可能性があるからである。
下流の者が追いつきそうになったら風流の定義を変更すればよい。
また、単に感覚が飽きるからという理由も大いにある。
そのようにして流行が生まれる。
たとえば、古いものほど風流だとしておけば、新参者にはどうしようもない。
しかし新参者はお金を払って古いものを手に入れる。
買い占められそうになったら、
価値基準の変更を発表する。