徒然草第143段:人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己れが好む方に誉めなすこそ、その人の日来の本意にもあらずやと覚ゆれ。
この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。
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人の臨終の時の素晴らしかった様子などを人から聞くと、ただ静かに安らかに亡くなったとでも言ってくれれば趣き深く感じるのに、愚かな人は、不思議な様子を加えて異なるように大袈裟に語ってしまう。故人の語った言葉も振舞いも、自分が好きな方向に作為を加えて褒めちぎるのだが、その故人の普段の様子からすると、そういった(事実とは異なる)大袈裟な作為は本意ではないのではないかと思ったりもする。
人間の死という重大事は、神仏の権化であっても定めることなどできない。博学の有識者であっても、人の寿命は予測できないものだ。死にゆく人が、自分の普段の本意と異なることなく亡くなっていくのであれば、他人の見聞によってその故人の評価をすべきではないのだ。
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臨終の瞬間は他人の解釈など許さない、個人に固有のものだというあたり、先進的である。宗教の流派で言われていることを解説しそうなものであるが、そうではなくて、人の死については神仏も決めることができない、個人的なものだという。切れ味するどい。
この頃すでに神仏宗教を相対化できていた。いいことである。