徒然草第190段:妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。
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妻というのは、男が持つべきものではない。『いつまでも独り者で』などと言われるのは心憎いものであるが、『誰それの婿になった』とか、また、『こういった女を家に連れ込んで、一緒に住んでいる』とか聞くと、その男をやたらと見下げてしまうような気持ちになる。格別の魅力がない女を素晴らしいと思い込んだ上で一緒になったと、無責任にも周囲から推測され、良い女であれば可愛がって自分の守り本尊のように崇め奉ってしまう(尻に敷かれてしまう)。
例えば、妻を持つことをその程度のものだと思ってしまう。更に、家を守って家政を司る女は、非常につまらない人生となる。子どもが出来れば、妻は大切に世話して可愛がるが、これも気分が沈む。夫が亡くなれば、貞節を通して尼となり年を重ねる。男というのは、死んでも妻に干渉しているのがあさましくて興醒めである。
どんな女であっても、朝から晩まで毎日見ていれば、ひどく気に食わないところが出てきて憎くなってしまう。女にとっても、嫌われつつも一緒にいて世話をしなければならない、そんな結婚は中途半端なものになってしまうだろう。他の場所から時々通い住むという通い婚こそ、年月を経ても絶えない男女の仲になるのではないか。不意に男がやって来て、そのまま一泊して帰るのは、きっと女にとっても新鮮な関係になるだろう。
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こういう段は何を意味しているのだろう。
そんなに大げさに言わなくて良いと思うが、妻と住むことは普通のことだろう。
なにか嫌な目にあったのか。
一つ家で他人と折り合っていくのがそれほど困難なものなのか。
妻となる方にしてみれば、兼好のような上から目線でプライドの高い人と一緒にいても、苦しいことも多いだろう。