徒然草第242段:とこしなへに違順(いじゅん)に使はるる事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(がくよく)する所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(ぎょうせき)と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味ひ(あじわい)なり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんどう)の想より起りて、若干の煩ひあり。求めざらんには如かじ。
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永遠に終わりなく、順境(幸福)と逆境(不幸)とにこき使われることは、ただ一途に楽を求めて苦を逃れようとするためである。『楽』というのは、あるものを好んで愛することである。これを求めれば、終わりがない。楽しんで欲望することの、一つは『名誉』である。名誉には二種類ある。自分がやってきた実績(あるいは公的な身分・立場)と自分の持っている才能・技芸の二つの名誉である。楽しんで欲望することの二つ目は『色欲』である。三つ目は『美味しいもの』を食べたいという味覚の欲である。すべての願いは、この基本的な三つの欲望には及ばない。これらは真実とは正反対のことを信じる顛倒の思念によって起こるもので、多くの心の苦悩を伴うものだ。多くを求めないことに越したことはない。
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名誉欲と性欲と食欲を並べてみて、どの欲にどれだけ労力と財をつぎ込むかと考えると、どれも大したことはないようだ。
現代では勤労者のお金の使い道として大きい部分は、住宅ローンと教育費であると言われている。住宅欲と教育欲と言っていいかもしれない。純粋に個人的な欲求ではなく、家族のために家を用意し、子供のために教育するのだから、家族と子供のためということになる。
性欲と食欲は、どれがどれだけすごいのかは、それぞれの考え方や感じ方によるので単純に比較はできない。だから、どれだけ満足すべきかも、客観的には決められない。ドパミンとかアドレナリンの量で決められるのかもしれないが、満足や喜びはそんなに単純ではない。
名誉欲は、他人と比較して、どれが素晴らしいかを決めて、その上で、自分はどれだけ満足するかを決めることになるのだろう。その点では喜ぶのも愚かなことだ。また、名誉の一例として勲章などを考えると、それを決める人がいるわけで、他人に自分の価値を決めてもらうなど、愚かなことである。
資本主義社会では本質的に無駄なものを売りつけるのが大事らしい。その点では、名誉欲、性欲、食欲などに訴えて、無駄なものを売りつけることが多いのだろう。
一生働き続けるのが妥当な程度に欲望がある、そのように設計されている。
性欲と表現していても、その中身としては承認欲求が主であろう。
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兼好の頃は住宅問題はきつくなかったし、教育問題もあまりなかったのだろう。ある職業に就くために学校で勉強するなどということはなかったわけだ。
家柄が良ければ出世できるのはおかしいなどと書いているが、そのような点は現代も同じである。
教育欲についても、たとえば音楽教育では、「現代のベートーベン事件」で分かったように、たいしたこともない「音楽性」であるのに、何かの才能を見つけ出し、何かを教育したいらしい。
良家の子女がそんなことに時間を費やしているのは愚かであろうが、悪いことを覚えるよりもいいだろうという程度だ。