繰り返しになるのだが 言い方を変えて書いてみる 公正な社会というものの極限の姿に 結果の平等というものがある 努力は人それぞれであるが結果は全員平等とする それは、努力は各人が各人の能力に応じて100%頑張ったという前提がある その場合、自分の能力を低く申告して、楽をして、同じ結果を受けてしまうタイプの 道徳違反を排除することができなくなってしまう 集団を構成する各人がそんなことは考えず、誠実に努力する人たちであるなら 問題はない しかし一部に問題のある人たちがいてモラルハザードがあった場合は結果として

繰り返しになるのだが
言い方を変えて書いてみる

公正な社会というものの極限の姿に
結果の平等というものがある
努力は人それぞれであるが結果は全員平等とする
それは、努力は各人が各人の能力に応じて100%頑張ったという前提がある
その場合、自分の能力を低く申告して、楽をして、同じ結果を受けてしまうタイプの
道徳違反を排除することができなくなってしまう
集団を構成する各人がそんなことは考えず、誠実に努力する人たちであるなら
問題はない
しかし一部に問題のある人たちがいてモラルハザードがあった場合は結果として
善なる鳩の集団の中に悪の鷹を混ぜたような具合になる
あまり幸せな事にはならない
理想的な個人が集まっている集団ならば結果の平等は大変良い仕組みである

また一方で、公正な社会という場合、
機会(チャンス)の平等とうものがある
能力のある個人はチャンスを活かして幸福になるというモデルである
この場合、理想的な個人であれば、自分に能力があって幸福になった場合も、
周囲の人々のことは考えるものであるから、みんなが幸福に慣れるように配慮するだろうと自然に考えられる
それが理想的市民である
しかしただ貪欲な個人であれば
周囲の人達がどうであっても共感を持たず生きていることができる
その場合は、そもそも個人の能力というものは何によって構成されているのかを考えなければならない
それは個人の努力もあるのだが、それだけではない
もともとの遺伝的素質ということがまずある
そして環境要因が大きい
偶然に大きく左右される
「周囲のみんなのおかげ」という部分も大きい
だから、成功したとしても、それが個人の努力の結果だと思うのも間違っているのかもしれない

結果の平等にしても、機会の平等にしても、またその他の社会の価値観や仕組みにしても、
各個人が理想的な倫理観を持った人間であれば何も問題は起こらない
要するに、各個人は懸命に努力して、周囲の人をも幸せにすればよいだけのことなのだ

社会の仕組みとしては
善良な個人を邪魔しないこと
邪悪な個人を抑制することが目的になる
しかしここで善良とか邪悪とかで表現していることの内容が何かということに関しては
時代や地域によって異なるものであり
流動的である
流動的な場合、民主主義的な手続きで決めるというのが多い方法であるが、
資金力の多い人が民社主義的決定をリードできるというのも現実である

最大限の自由と最大限の平等は矛盾するので
その妥協点を見つけたいのであるが
妥協点はいつも流動的で
妥協点を決定する事自体が幸福闘争になり権力闘争になる