知覚の特性

我々の知覚の特性として
対象物のすべての性質を感覚しているわけではない
ということがあげられる

可視光線以外は目は視覚しないし
たとえば赤緑色盲であれば赤緑の分離のない世界を認識している

「ものそのものを知覚することはできない」とするカントの立場であるが
そこまで厳密に考えなくても、素朴実在論で間に合うのだからそれでいいという立場もある

このような原理的な不可知とは別に
個人のレベルで理解が不十分だったり、注意が不十分だったりして、途切れ途切れの不完全なものから
元の完全なものを再構成して知覚することを人間はしている

原理的に部分しか知り得ない対象に関して、全体を直感的に知ることを
現象学的把握と読んだりする

このあたりのことはカントと、のちローレンスで、解決が当たらえれているようにに思う

補完に用いられるのが数学である

ーーー

さて、以上のような、飛び飛びの不完全な情報を各個人なりの仕方で補完して世界を連続的なものとして解釈している

その解釈の仕方は正しいのであろうか
そこに疑問がある

実際には、「買い物ができるような程度に精密であれば良い」
「仕事が出来る程度に簡略的であってもよい」
しかしその実際に要求される精密さは場合による

結果として他人と交渉するときに問題がなければ、
相手の頭の中にある想念がどのようなものであっても、それは構わないことになる

ーー
たとえば飛び飛びの映画を見て、物語の全体を推定し、結果として、他人の推定とあまり違わない程度のものになる。
たまに違っていれば、才能が有ると言われたりもする。
才能があるとかないとか言う者たちもまた不完全な知覚を都合のいいように補完しているだけである。

ーー
知覚も飛び飛びであり、推理も不完全で飛び飛びである、そんな中で何とか他人と
話が通じる程度の、共通理解に至るのである。
二人で涙を流して、強く共感したりもする。 
そして年月の後に、人はわかりあえないのだと、しみじみと理解したりする

ーー
途切れ途切れのものを補完する機能があるのでパレイドリアが発生して
意味のないシミが人の顔に見える