現象学的記述は可能なかぎり先入観を排除し
純粋に観察し記述するというのだが
もちろんそんなことは無理な話で
観察者にはあらかじめ何かの理論の「枠」がある
私の考えでは
後の頭の良い人のために
現在の観察者の可能性のある先入観とか
観察とか記述の不純さを
隠蔽して、無いかのように振る舞うのではなく
むしろ詳細にして明らかにすれば良いのではないかと思う
そうすれば
後世の人が先入観を引き算をしやすい
今現在の治療に現象学的記述が必要なのかといえば
それはそうでもないような気がする
無自覚のうちに共有している部分が大きいだろうと思われる
ーー
現象学的記述について追加すると
たとえば
現象をビデオで撮影するとする
(文章で記述するというのではもう絶望的に現象学的ではありえない)
そのビデオもひとつの視点からだけ見せられるのでは全く不十分である
ホログラフィーの話題の時に言われたことだと思うが
現象を事後に立体的に再生できるようにしておけばいい
実際に見るとすればどこかの視点からでいいと思うが
どの視点から眺めるかを自分で選べるようにすれば良い
そのくらいの技術はあると思う
普通のビデオではどこにピントを合わせるかも決まってしまうが
最近の技術では、事後に、どこにピントを合わせるかも選択できる
昔はそのような何かを記録する技術が理想的な記述として求められたのだと思う
現代では文章で書かなくても録画や録音ができる
ーー
その先にあるのは「主観的体験の記述」の問題である
今何かの方式で記録しておいて、
時代がたったあとで素晴らしい技術が開発されて
主観的体験を再生するとして
そのようなことが原理的にできるものだろうか
当然考えられるのは「脳の状態について逐語的に詳細に記述する」というものである
すべての精神活動は脳の活動の結果だとすれば
脳の活動を詳細に記録することで
将来の時代には再生の方法もできるだろうと考えられる
ーー
こんなことを言うのも、具体的な理由がある
30年くらい入院している人について
古いカルテを読んでみると記述の仕方が随分違う
表現は違っても、「この部分は今で言うあのことだな」と理解できれば
それは良い記述である
なにか色々と書いていても、
言おうとしていることの範囲は推定できるとしても
曖昧なままだったりする
それはあまり良い記述ではない
ーー
こんなの書くくらいならビデオを見せてほしいなあと思うこともあるのだが
それで問題は終わりではない
ビデオに写っているその人の頭の中のイメージ・システムはどうなっているのか
それが分からないことには
話が前に進まない
赤毛のアンが好きなのか
バイブルが好きなのか
コーランを読んでいるのか
ニーチェとかウィットゲンシュタインとかなのか
「うさぎ」という言葉は、その人の頭の中どどの位置にどんなふうに折りたたまれているのか(比喩的に)
それを知らなければならないのだが
その人はすでに表出が崩壊しているのである
どうしたら良いのだろうか
ーー
簡単に喩えると
CPUの問題なのか、ビデオカードの問題なのか、という部分である
何れにしても像は乱れるのだが
普通それをCPUの問題と考えてしまう傾向があると思う