単なる文学を心配する

最も言いたいことは、
最も言いたくないことのそばにあると私は思う。
だから、表現というものは
恥ずかしさを伴うものだ。
そこで血を流して、持ち出すか、持ち出さないか。
持ち出してみて、
たとえうまく伝わらなかったとしても、
そのことで、あとで、恥ずかしさにヒリヒリしても、
私は、持ち出して、伝えてみる価値はあると思う。
たとえ、相手に「?」で、
わかってもらえなかったとしても、
「いま、この人は、そうとうの恥ずかしさをおして、
覚悟をもって、それを言ったな」ということは、
なぜか伝わっている。
内容以上に、その姿勢こそが、聞く人に、
自分も失敗を恐れず表現してみようかという気にさせる。
表現の風通しがよくなる。
また、恥ずかしさを押してでも、
自分の中から何かを持ち出し、伝えてみようとすることは、
相手を信じていないとできないことだ。
相手を大事に思っていないとできないことだ。

ーー
相手を信じていなくても大切に思っていなくても
ただ自分の都合だけで自分が大事と思っている何かを伝える事態は非常に多くある

それでも伝える方がいいなんていうのは
結果としてこのように伝えているからそう表現するだけで
伝えないほうがいい場合もとても多くあるのだし
実際、伝えないで沈黙している人のほうが圧倒的に多いだろう

最も言いたいことは、
最も言いたくないことのそばにある
というのも
レトリックとして面白いだけで
それが妥当する場合もあるし妥当しない場合もある
原理的に考えて

最も言いたいことは、
最も言いたくないことのそばにある
などということはないだろうと思うので
これは単なる文学である

心理学関係の文章とかは
単なる文学でしかない場合がとても多くて
それは英文に翻訳してみると分かる場合もある

要するに何も中身のあることを言っていない
しかし日本語で読むとなにかとても中身がありそうな感じがする
という場合である