“ <ただ好き。> 「好き」という気もちは、 つまり「ハッピー」だと思うのです。 好きな人のことを考えたら、 それだけでハッピーになります。 好きな食べもののことを考えたら、 それもハッピーになります。 好きな映画やマンガのことを想像しても、 やっぱりハッピーです。 だからぼくは、 「好き」は「ハッピー」だと思うのです。 でも、「好き」がハッピーじゃないとき、 「好き」が苦しいときは、 それは「好き」に余計なものがついているときなのです。 それが「執着」や「比較」や「依存」や「期待」です。 これは、も

<ただ好き。>
「好き」という気もちは、
つまり「ハッピー」だと思うのです。
好きな人のことを考えたら、
それだけでハッピーになります。
好きな食べもののことを考えたら、
それもハッピーになります。
好きな映画やマンガのことを想像しても、
やっぱりハッピーです。
だからぼくは、
「好き」は「ハッピー」だと思うのです。
でも、「好き」がハッピーじゃないとき、
「好き」が苦しいときは、
それは「好き」に余計なものがついているときなのです。
それが「執着」や「比較」や「依存」や「期待」です。
これは、もともと「好き」とはちがうものです。
ひっついてるけれど、ばらばらのものだと思います。
だから、そういうときは「好き」だけのこしておいて、
そこについた「執着」や「期待」だけを、
取り払えたらいいですね。
では具体的にどうすればいいか、といえば、
やはり諦めるほかないのですけれどね。
なにを諦めるのかというと、
好きな相手ではもちろんなくて、
なんというか、コントロールを、です。
当たり前ですが、
コントロールはできないわけですよね。
だから、もう、委ねるほかないのだと思います。
なんだかぐずぐずと要点を得ずに
書いてしまっていますが、
昔ぼくは、実際にそうしたことがありました。
「好き」という気もちは、もう仕方ない。ある。
だからそれはそれとして、
相手の気もちや、状況や、現状といった、
じぶんの影響の範囲外の部分、言い換えると、
コントロールできない部分については、
もう考えないことにしました。諦めました。委ねました。
そうすると、もちろんすぐにではなかったと思いますが、
とても気が楽になりました。
「好き」だけがのこって、
それはなんというか、いいものでした。
ただ好き。
そうなれるといいですね。
明日の天気や、宝くじの結果や、
だれかの寿命や、相手の気もち、
そういう、じぶんにはどうすることもできないことが、
この世界にはある。
ということを認めることは、ぼくはいいことだと思うのです。
もっといえば、すがすがしいことだとさえ思います。
いい意味で、じぶんがちっぽけに、
じぶんの悩みがちっぽけに、
思えてくるんじゃないかなぁという気にさえなります。
いろんなことを、好き勝手にいってしまいましたが、
そのどれかひとつのことばでも、
あなたを支えるものがあればと願います。
ずいぶんと的外れなことも、うんといってると思います。
いいようにだけ、とってください。