"不適応の人間に対しては、昔から
「甘えるな」
という決まり文句が浴びせられることになっている。
そう言いたい人たちの言いたい気持ちはわかる。
しかし、甘えている人間に、「甘えるな」と言うことは、転んで痛い思いをしている人間に「転ぶな」と言っているのと同じことで、そもそも無意味なのだ。
不適応者は、苦しむことから逃げているから不適応に陥っているのだ、というふうに、適応的な人々は観察するわけなのだ。
しかしながら、周囲や環境や仕事や職場になじめないでいる当の本人にしてみれば、不適応であるということそのものが、既にして苦しみなのであって、そうである以上、彼の側からは、すべてが不可能であるように感じられる。
泳げない人間を水に投げ込むと溺れる。
あたりまえの話だ。
不適応というのは、端的に言えば、溺れている状態と同じだ。
とすれば、溺れている人間をつかまえて、
「おいおい溺れるなよ」
「いい気になって溺れてるんじゃねえぞ」
「何甘えてんだよ」
「泳げばいいじゃないか」
「何様のつもりでおまえ一人溺れてるんだ?」
と言っても、溺れている状態は改善できない。
溺れている人間は、水を呑む苦しみや水の底に沈む苦しみから逃避しているから、溺れているのではない。いい気になっているから溺れているのでもなければ、甘えた根性で生きているから溺れているのでもない。
溺れている人間は、溺れるほかに水に対処する方法を知らないから、余儀なく溺れているに過ぎない。
溺れている人間は、だから、ともあれ、一旦、水中から引き上げてやらないといけない。
で、落ち着いた環境で、遊泳法なり、水中歩行法なりを伝授したうえで、あらためて水の中に入れるようにした方が良い。それができれば、だが。"
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適応についてはいつも話が同じで、
適応に値するほど素晴らしい現実なのか、
現実のほうが悪いのだという話と、
そうは言っても現実に適応して給料をもらって生活するしかないではないか
どこかの御曹司でもないのだから
という話が並行線である
くだらない現実というのも一面であるが
そんな現実もクリアしてみれば、その先にまた新しい景色が広がることも事実である