学習する、蓄える、訂正する、このプロセスで
人間の脳は世界について知る
そして内部に世界観を蓄える
ここに
他人は私を軽蔑して陰で笑っている
という世界観・人間観を持っている人がいるとする
もちろん平均的な経験をしてきた人間であれば
それは認知の歪みというものである
その場合、
1.世界観を訂正する
2.学習のしかたを訂正する
の2つの方法がある
もちろん、2のほうが応用が効くのだが
訂正は簡単ではないし
それを応用して1の世界観を訂正してゆくのには時間がかかる
1の世界観を訂正してしまうほうが即効性がありありがたがられる
しかし2の学習・訂正機能が壊れている限りは
そこから先の体験が訂正されないで残ってしまうので
不都合である
1は魚をあげる、食べてしまえばおしまい
2は魚の釣り方を教える
そういえば日本の社会は技術よりも物品をありがたがる
ディズニーランドで「体験を買う」はずなのだけれど帰りにはたくさんのおみやげである
すごく極端な架空の例を言うと
1は試験問題を入手して丸暗記させることに近い
認知の訂正とはそのようなことである
2の自分でどこが違うか考えて気づいて訂正するとなると
なかなか高次元である
本質的に頭がいいということとほぼ同じである
教育して頭が良くなるというなら
IQはじめ現在の教育学の大半が破壊される
認知を訂正するのではなくて
認知機能を訂正するのである
コップに水が半分だけ入っている、
まだ半分あるとか
もう半分しかないとか
訂正するというのは
世界観の入れ替えであって1の領域である
認知機能に柔軟性をもたせ応用が効くようにするなどという
とんでもなく高度なことができるようになるとも思えないし
第一指導している人間の方が、そんなことができているとも思えない
ーー
貧乏なサラリーマン株屋が株の売買を指導する
知り合いは競馬が好きで通ったが
自分の好きを活かすには自分が馬券を買うのではなくて予想屋をやればいいのだと気がついた
予想屋のほうが儲かる
しかしその場合、かれの商品は欠陥品なのである
各自、自分の認知を訂正する方が先だと思う