論文は不正だったが主張は真実かもしれない、などという日本的情緒空間 主張が真実であることを手順に従って証明することで主張は真実であることを主張できる 論文が不正でしかしアイディアは真実だというのは、化学村では考えにくい。 論文が真実であることがアイディアが真実であることの必要条件だからである。 しかし論文著者が、論文には未熟なところもあるが、真実であるというのは、論外の暴論である。 科学的真実は、神や教会の語る真実と反したものであったときも、正しさを主張できる方法論を身につけて成長してきた。 そのす

論文は不正だったが主張は真実かもしれない、などという日本的情緒空間
主張が真実であることを手順に従って証明することで主張は真実であることを主張できる
論文が不正でしかしアイディアは真実だというのは、化学村では考えにくい。
論文が真実であることがアイディアが真実であることの必要条件だからである。
しかし論文著者が、論文には未熟なところもあるが、真実であるというのは、論外の暴論である。
科学的真実は、神や教会の語る真実と反したものであったときも、正しさを主張できる方法論を身につけて成長してきた。
そのすべてをご破算にして、素朴な「それでも真実は真実だ」と言うのである。
どうせなら「私は人魚を見た」「200回以上だ」と言いつづけて、人類に夢を与えてほしいものだ。