音楽村のエピソード 「一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる」

現代のベートーベンのゴーストライター事件で
新垣氏側は「一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる」と
語っていて、古典音楽愛好家をなにか打ちのめすような空気があった

新垣氏が話を合わせて、
「悪い人に搾取されながらも、私の魂の奥底からの叫びが表現されている傑作です。平和への祈りです」みたいなことを
言えば俗世間もそれなりに体裁を繕えるのだが
現実はそうではない

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楽器を弾く人の技術は向上していて、昔の難曲もいまは練習曲である
作曲技術も素晴らしく発達しているが現代音楽は世間人にはあまり楽しくないしお金を払おうと思わない
感性が届かないというよりも、ありがたく思う社会システムを作るに至っていないからだろう

スポーツの記録はなぜか年々向上している
科学の世界は当然進歩している
医学の世界ではむかしは神の手による奇跡が、いまは一日10件の平凡な仕事になっている
高校生は微分積分を理解している
将棋の世界では昔の名人はたぶん今は勝てない

イメージとしては、数学の練習問題を出されて、アルバイトとして解く感じ
別段特別のインスピレーションも必要ではなく、世界ではじめての業績でもない
条件に合わせて連立方程式を立てて、それを解く
手順に鮮やかさがあるときとそうでない時があるだろうが
連立方程式を解くにあたってさして問題にはならない
手順が鈍くさい時もそれはそれで苦悩の表現なのだと納得する
気分が乗ってくるといい気晴らしになる

またたとえばゴッホ風に津波を描くとかそんな感じ
それをありがたく思う人たちが結構いたということだ

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音楽を習うということが、家元制の茶道みたいな感じになっている部分がある
情操教育というが当事者がそう言っているだけで内容はない
原子力村と同じで音楽村である
音楽利権を権威の名のもとに分けあっている

そう言ってしまっては身も蓋もないのだが
新垣氏はかなり身も蓋もない事を言った

あるオペラ作曲家が、お望みならレストランのメニューにメロディーを付けて泣かせてみせよう
と言ったと記憶している
ロッシーニとかそんな人

ベートーベンの苦悩とかショパンの苦悩が語られすぎる面はあるのだろうと思う
それが大事な教育だと思っている
音楽家教育とはまた違う、教養としての音楽
高校野球が人間教育だと言うのと同じだろう

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音楽はバッハの頃に幾何学的になって、そのあとロマン派で幾何学から抜け出て人間的になり
いまは人間を超えた苦痛な感じでうるさい、そうでなければ抽象絵画に近い
分かりやすいものや耳障りのいい物は映画音楽だと批評されるらしい

ブラームスの音符には意味があるのだと楽譜を研究するのが通である

「感動」を量産して消費する社会

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現代のベートーベンはNHKの大河ドラマの音楽を担当する話もあったそうだ
そうなっていたら一層騒動は大きくなっていた