“ 今思えばまったく愚かな話だけど、ぼくはちょうど学生を終えてサラリーマンになろうとする直前に漠然とした恐怖をかんじてたんだよ。今でもうまく言えないけど、ほとんどの人が、なんか無為に生きてって死ぬんだよな、自分もたぶんそう、みたいなこと考えてると、うっすらと背筋がさむくなるような、かるく呆然としてしまうような、そんな気分になってた。NHKの「プロフェッショナル」とか見て、イチローとか羽生善治にしたってそうだけど、いやあすごいね、あんなところまで到達した人がいるんだ! とうれしくなる一方で、でもそうじゃないまま死んでく人の方が圧倒的に多いんだ、自分だってその一人かもしれない、ってすごく寂しくなる。
でもそんなことなかった。
どうやら思ってたよりずっと、ちょっとびっくりするような地点まで到達してる人は、この世の中にはいるんだって会社に入って認識を改めた。「普通の」サラリーマンでも、たぶん「普通の」主婦でも、そう世の中の人が「普通の」としか思ってない人達にも、かくれ「プロフェッショナル」みたいな人が結構いるみたい。それを人に見える形で表現されることが少ないから見えないだけだった。当たり前と言えば当たり前だ、みんな真剣になにごとか考えて生きてるんだしね。視野がせまくて少なく見積もり過ぎて勝手に悲観してた。
たとえば死ぬとき、その死に関心を払う人がたかだか10人にすら満たずに、「普通の」人とみなされて死んでく人たちの中に何人も、とても豊かに世界を見ていた人たちがいるんだと思うと途方もない気分になるよ。そして自分だってそうなれるのかもしれないと、楽天的に信じられているのは幸福だ。
その確信に従って、もちろん「ここから、すごいおじさん」という境界があるわけではないので、無限遠に向かう運動をつづけていくんだ。確信が持てて運動を続けられることそれ自体が歓びだから、たとえ他人からはかなり手前にとどまっていると見なされたとしても、もはや関係がなくなる。”
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“「生きていく理由はないと思う。いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまうのだから」。日本も人類も滅びて一向に構わない。世間の偽善ゴッコには参加したくもない”
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“変わろうとしない奴ら見て絶望しないようにな。そいつらは、まだ、その時期じゃないだけだ。人それぞれタイミングがある。お前は人よりちょっと早えーんだ”