第二章 精神分析学

第二章 精神分析学
概観
「どうも腑に落ちないな」
我々が暮らしていて心を澄ませていると、そう感じることがよくある。
一見したところ立派そうな人がどうして子供を虐待するのだろう?
彼女はここ一年間素晴らしい結婚式を夢に描いていたのに、いざ実際に結婚式を迎えて、どうしてすてきなものにしようとしないのだろう?
素晴らしい隣人に恵まれ、素晴らしい学校で学び、良い家族に囲まれて育ち、人生に意欲が無いとは何ということだろう?
そして驚くことだが、「泥棒にも三分の道理」とことわざにも言われているのはどうしたことだろう。
100年以上前、ジークムント・フロイトは、我々の目に見える、表面に現れた人生というものは、我々の精神生活全体のほんの表面に過ぎないのだと主張した。
人間の精神生活の大部分は無意識のレベルで起こっていることである。
症状や問題行動を理解するには、無意識のレベルを理解しなければならないのである。
ストップウォッチで測れる時間、ものさしで測れる長さ、言葉で語られる意味、他人にも見える客観的行動、それらはほんの表面でしかない。その奥に深い精神世界がある。その理解なくして、症状も問題行動も理解はできない。
うつの症状カタログの中で何個が揃っていて、持続は何ヶ月でした、強迫症状としての鍵の確認は1ヶ月前は2時間かかって、現在は1時間です、それで何を理解しているのだろうか。
精神分析は治療システムであり、同時に、人間理解の方法である。そして今も活発に発見を与え論争を巻き起こしている。
精神分析的思考は日常生活の言葉にも入り込み(たとえば「フロイト的言い間違えだったよ」などと言う)、我々の思考に深く影響を与え続けている。
冒頭にあげた問いかけにあなたならどう答えるだろうか?
現在虐待している人間は虐待された過去があったのだろうかと疑うだろうか?
(意識からは消去されている人生早期の体験が反復されている。)
結婚式をショーアップしようとしない女性は、とても直面できないような、複雑な感情があるのではないかとあなたは感じなかっただろうか?
(意識的な感情体験にならないように防衛されている内面の葛藤。)
恵まれているが意欲のない学生は、目に見える以上の問題を抱えているのではないかとあなたは考えなかっただろうか?
(内的感情体験を覆い隠し、それを直接に感じることを妨げて防衛している表面的な幸せのストーリー。)
精神分析的思考は20世紀を通じて進展を続けた。その結果、古典的精神分析と現代的精神分析のふたつのアプローチが併存している。
精神療法は途方もなく多種多様に存在するのだが、その中で精神力動的精神療法は精神分析学のもっとも直系の子孫である。
Rangell(1963)によれば、広く実践されている精神療法の大部分は精神分析理論や技法を基礎としている。
精神分析は多様な分野に影響を与え、子供の発達理論、哲学、フェミニズムにまで及ぶ。
フロイトの説に反対し自分の説を主張しているような、ものを深く考える人や治療家にも、いまも霊感を与え続けている。
フロイトの説を拒否しても、改造しても、受け入れても、いずれにしてもフロイトの遺産とともに我々のいまはあるのだ。
この文章の目的は精神分析を少しだけ深く理解することで、特に現在でも強力な影響力を持つ精神分析的概念について解説したい。
フロイト自身の考え方は生涯にわたって変化進展を続けたし、それはいまでも進展し続けている。
精神分析が誕生した当時からすでに、反論もあり、変更もあった。
時間と研究によってふるい分けられて、ある部分は尊重され、ある部分は価値のないものとされた。
精神分析的思考がどのように役に立つかについては、臨床面で、また多様な分野での経験によって、エビデンスが蓄積されている。
この文章のゴールとしては、
・精神分析的考え方の中核を提示する
・精神分析的考え方がどのようにして発展してきたか示す
・精神分析的用語と原理の神秘性を取り除く
・精神分析的治療法を少しだけ説明する
・精神力動的思考の様々な応用を提示する
・精神分析的に方向づけられた治療の研究エビデンスを検証する
・精神療法で精神力動的思考法がどのように応用されるのか、例を上げて説明する
という予定である。
基本の考え方
人間の体の機能について考える時、機能を裏打ちしている構造があるはずだということで、解剖学や組織学のトレーニングを受けたことだろうと思う。
さらには顕微鏡でも見えないような生化学的な基礎を学び、生物学的な物の見方を学んだと思う。
しかし肉眼解剖学も、細胞生物学も、生化学も、我々の精神の謎を解き明かしてはくれない。
人間の全体が驚異の産物であるが、なかでも精神活動こそがその頂点である。
書物を理解するときに、書物を分解して、重さを測り、長さを測り、紙の成分とインクの成分を分析して、何が分かるだろう。書物という物体については分かるだろうが、何が書かれてあるのか、何が書かれていないのかについては、物理学でも化学でも知ることができない。意味について、物理、化学、生物学は教えない。
 
精神分析は人間の行動を内的体験の探求から解明しようというものである。
(その反対極が行動主義心理学といえるだろう。)
また、精神分析的理解の臨床的応用によって心理的問題を解決しようとするものである。
(その誤った応用は新興諸宗教に見られるだろう。)
したがって、中心原理は、理論的考え方でありも治療方法でもあることになる。