他所の家におじゃますると、その家特有の匂いがあったりする お年を取れば耳の聞こえは悪くなり、全般に悪くなるだけではなく、特定の周波数が脱落したりもする 世界の様子がだいぶ変わるはずだ いつもカレーを食べるとかにんにくを食べるとかの人は、 鼻粘膜の一部にカレーやにんにくの成分が残存していて 世界の匂いがそれに影響されている いつもサングラスをかけている人は、最初は世界に色がついて見えるが、次第に 脳の中で引き算をしたり足し算をしたりして、演算の結果、「いつもの」見え方を確保している しかし「いつもの」

他所の家におじゃますると、その家特有の匂いがあったりする

お年を取れば耳の聞こえは悪くなり、全般に悪くなるだけではなく、特定の周波数が脱落したりもする
世界の様子がだいぶ変わるはずだ

いつもカレーを食べるとかにんにくを食べるとかの人は、
鼻粘膜の一部にカレーやにんにくの成分が残存していて
世界の匂いがそれに影響されている

いつもサングラスをかけている人は、最初は世界に色がついて見えるが、次第に
脳の中で引き算をしたり足し算をしたりして、演算の結果、「いつもの」見え方を確保している
しかし「いつもの」見え方が、どれだけふつうのものであるか、保証はない

各家庭のテレビを見ていると
その家庭なりの画像の好みがあることも何となく分かる

あまり明確な根拠はないようだが、
「ゴッホが黄色を使い・眩しい印象の絵を描くのはジギタリス中毒のせいでないか」などの話もあり、
その分の影響を取り除けば、こんな絵になります、というような実験も提示されている
http://asada0.tumblr.com/post/11323024757
こんな感じ
しかしこのような話の時にも、脳の中で演算が行われて、生活に不都合のないように辻褄が合わされていることは
心に留めておこう
視覚が正常とはずれている場合に、どのような絵を書くのか、どのような色使いをするのかという問題は
何重かに引き算したり足し算したりして考えなければならない
結局普通くらいに見えているから普通くらいに暮らしていけるはずだろう

ゴッホが自分にとっていつものように見えている絵は、
他人にとっては、やはりいつもの様に普通に見える可能性がある

自分にとっていつもの見え方になるように絵の具を使えば、
他人にとっては、やはりいつもの様に見える色の使い方になるはずだろう
赤と緑が区別できないという場合はやはり区別できないだろうが
そこを生活体験で補って、不都合のないように、脳の中で演算して世界を構成するのだろう

主観的な見え方、感じ方はずいぶん違うのだろうし、どれだけ違うかを計量化することも難しい
上に書いたのは感覚の世界であるが、
被害的な感じとか悲観的な感じとか、もう少し脳の内部の処理について言えば、
さらに難しいことになる

絶対値で提示することは難しいが、
変化をどう知覚するか、変化をどう主観的に認知するかについては、もう少し計量できそうな気もする

ーーー
極端な近視の人が、風景や花の鮮明な写真を見て、世界はこんなにも美しいのかと驚くこともあるだろう
私の場合は多分それに近い
PCのモニターを見続けているうちにますます近視になっている
世界がはっきり見えていないのだ

ーーー
このようなことから考えると、認知の偏りというものの扱い方にも
かなりの注意が必要なのだろうと思う

適応的認知と不適応的認知は一応は認定できるけれども
それは一応のものであって、いわば「超越論的な仮定」、つまりだいたいみんなが共有している常識的な線が
あってこそのことだろうと思う

ーーー
サングラスをかけている人なら、外してもらえばいいような気もするが
感覚の偏りについてはそのように簡単には行かないところがある