文法の話で
主語と述語があって
主語が述語をするのである
日本語で主語がなくても分かるのは省略されているからである
なんていうように言われるのだが
認知言語学というものがあって
その中の一部では
言語は一般に集合の関係を記述しているという考えがある
象は鼻が長い
という場合、象の鼻が長いという主語と述語ではなく
像という集合と、鼻が長いという集合の、包含関係を記述しているとするようだ
なるほどこれは筋が通っている
日本語が非論理的だという話も誤解に過ぎないことがよくわかる
外的な世界を記述して脳内のミニ現実を構成し
その中でシュミレーションして物事を判断しているので
外在世界を転写する言葉というものは実に本質的に
精神療法にとって重要なのだが
そのミニ世界では集合の関係を規定しているのだと考える
これは昔、数学のすべてを集合論に還元しようとした試みの焼き直しなのだろう
本家の数学方面で挫折している集合論で何かを言おうとするのも
それはそれで見ものなのだけれども
それはそれとして
人間の脳の内部にどのようにミニ世界が蓄えられて構成されるかというのは
興味深い話なのである
そこに錯誤が生じていたら
その後の人生をずっと錯誤し続けることになるだろう
だから精神療法家は過去の体験を重視するのだし
反復される体験に着目する
脳神経細胞のあり方からか予想すると
集合概念があるというのはまあいいとして
それらの包含関係をいちいち規定しているというのもなにか考えにくい
もっと曖昧に連想があるとか、紐付けられているとかの表現が近いように思う
しかしそれを集合の関係を規定しているのだと表現することができないわけでもない
集合「象」は集合「鼻が長いに含まれる」という関係を脳が保存しているのだろうか
そもそも「鼻が長い」という集合が合成されたもの、計算されたものだろうと思うし
「象」という集合も、個人がすべての象を把握して帰納的に規定しているわけでもないので
ここにも合成と推論の計算プロセスがありそうだ
動物で、哺乳類で、動物園の人気者で、インドなんかにいて、サーカスと関係があって、四足で、大きくて、鼻が長くて、などと
徐々に規定しているのだと思う
それは集合関係と言うよりも連想の強い弱いではないか
神経細胞間の信号伝達が密接か否か、それならばイメージしやすい
したがって多分、集合の間の関係を記述すると言うよりも
集合の間の関連の密接さを記述していると考えたらどうだろう
統合失調症の連合弛緩 loosening of thinking はこの考えでいうとぴったりだと思う
(集合論で考えても、包含関係が外在の集合関係とずれていると規定しても良いように思うが、それは神経細胞の実態を反映していないように感じる)
どの集合とどの集合とが関係が濃いのか
多分、他の集合との関係が濃い集合はより上位の概念ではないかと推定できるのではないか(少し苦しいが)
文化の中で規定された集合の関係と
個人の生活体験の中で形成された集合の関係とが
あまりずれていないにならば滑らかに生活できる
かなりずれていると滑らかに行かない
それだけのような気がする
ずれてしまう原因は体験内容そのもののこともあるし
体験を記述して蓄積する脳の側の問題もあるだろうと思う
集合という言葉は従来で言う概念で言い換えていいのだろう
言葉の関係と言うだけではなくて
イメージシステムの問題でもあるし
行動で表現されるものとの関係でもある
昔は統合失調症を概念関係の崩壊過程などと考えることもあったが
今は多分、イメージや行動を含めてのことと考えていると思う
脳は言葉を操作すると同時にイメージを操作する
そして言葉と行動を通して他人に働きかける
脳の内部に蓄えられた言語・概念が外在現実と一致しないとき概念の病となる
脳の内部に蓄えられた行動や他者関係が外在現実と一致しないとき行動の病となる
こうしてみると統合失調症と行為の障害・パーソナリティ障害は遠くないものだろうと思う
概念の集合関係を操作できないのは
確かに統合失調症の症状の特性だと思う
一般に言うメタファーを理解しないという特性は
メタファーを現実の事象に置換して脳内に定着させる機能の不全であって
たしかに統合失調症の中核機能不全のように感じられる
メタファーの理解は
一面では集合関係の理解の仕方と言えるのかもしれない