薬剤についてプラセボ問題があり
奥が深い
精神療法についても同じプラセボ効果があるだろうと思うが
何がプラセボにあたるのか考えてみたことがあるだろうか
われわれは精神分析の長い経験を持ち
森田療法の経験もあり
認知療法の時代になっているが
プラセボ精神療法以上の何かがあったのだろうか
あったのならば今でも有効だろうと思うのだが
すべてはプラセボ精神療法だろうという意見もある
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考え方の一つとしては
患者の内面にある人間観や疾病観、治療観が前提としてあり
それにぴったり合う形で
精神療法を提供すれば満足が得られる
各宗教団体ではそのような背景が統一されている
共有しない人は排除される
宗教の教育機能と排除機能は明白である
お金持ちの指南をするコンサルとか占い師は
そのような商売の仕方をしている
孤独な人は何かに頼りたいのだ
フロイトの時代、フロイトは科学的発見をしたのではなく、社会に共有されている概念を見つけ出したのだとも言えるし
フロイトの場合はあまりにもインパクトが強くて
彼自身が偉大な教育者であったから
社会の常識とフロイトの提案は当然に一致したともいえる
治療構造を固く設定して脱落する人を排除する
治療契約は排除の裏面だろう
つまり広汎な範囲での教育機能と治療機能は一体のもので
治療とはその水準のものでしかない
治療の有効性の検定は
健康保険制度に容易に影響される
健康保険制度がDSMを参照するのなら
DSMの症状を治せばいいのだろうと
倒錯した治療が成立する
そもそも治療とは何だっけという
疑問まで行くと困った話になる
精神療法は科学ではないが
トマス・クーンの言っていたパラダイム・チェンジの考え方に
実によく一致する
むしろ純粋型パラダイムと言っていいのではないかと思う
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科学が進歩すると
科学の考え方を学習するのにも能力も時間も必要になるので限界点に
至るという悲観論もある
ますます教科書は厚くなり
練習問題も多くなる
それは正しいが共有されない
正しいが共有されないものも
科学の実験は影響されないと信じるのが素朴実証主義である
精神療法の場合に素朴実証主義が難しい
純粋パラダイムに対して素朴実証主義は難しいからだ
正しくないが、単に共有されているもの、という可能性がある
それでいいのだという居直りも強力である
経営が関係するからだ
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どうせ毎日ニュースショーを見るならば
アナウンサーが好きになったほうが得だろうという単純な功利主義もある
ニュースショーを見ないというのも難しいし
見て毎日腹を立てているのも損だろう
むかし、キリスト教を信じないより信じたほうが幸せになれるから
信じたほうがいいという論があった
たったそれだけのこと
治療者はそれを信じたほうが幸せになれる
患者はそれを信じたほうが幸せになれる
それがプラセボでもいい
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プラセボを何種類も考えるというのも原理的に難しいのだが
小麦粉をいろいろな形にいろいろな大きさにいろいろな溶けやすさに設定することはできる
するといろいろなプラセボが成立する
それをプラセボと呼ぶか
特別に工夫した薬だと呼ぶか