採録
大学院のゼミで、シェークスピアの受容史について論じているときに(いったい何のゼミなんだろう)通訳翻訳コースの院生から、私の論の中にあった「言語戦略」という概念についての質問を受ける。
言語は政治的につよい意味を持っている。
母語が国際共通語である話者は、マイナー語話者(たとえば日本語話者)に対してグローバルな競争において圧倒的なアドバンテージを享受できる。
なにしろ世界中どこでも母語でビジネスができ、母語で国際学会で発表ができ、母語で書かれたテクストは(潜在的には)十億を超える読者を擁しているのである。
自国のローカルルールを「これがグローバル・スタンダードだ」と強弁しても、有効な反論に出会わない(反論された場合でも、相手の英語の発音を訂正して話の腰を折る権利を留保できる)。
だから、自国語を国際共通語に登録することは、国家にとって死活的な戦略的課題である。
ご案内のとおり、20世紀末に、インターネット上の共通語の地位を獲得したことによって、英語は競合的なヨーロッパ言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語)を退けて、事実上唯一の国際共通語となった。
世界中どこでもグローバルな競争に参加するためには英語を習得することが義務化している。
そして、その「グローバルな競争」なるものは「英語を母語とする人々」がすでにアドバンテージを握っている「構造的にアンフェアな競争」なのである。
一言語集団にこれほどまでの競争上のアドバンテージが与えられたことは、人類史上おそらくはじめてのことである。
ことの良否はわきに置いて、まずそのことを事実として認めよう。
多くの人はリアリストであるので、「では英語を勉強せねば」と考える。
そして、英語学習に励むことになるのであるが、その場合にマイナー言語を母語とする英語学習者に示される学習方法は、ほとんど例外なしに「オーラル・コミュニケーション」を中心にしたものとなる。
「会話はいいから、まず文法と講読を」ということを言う英語教育者はきわめて少数である。
誰もが「まず発音」と言う。
なるほど。
だが、このような学習法の提案がもっぱら英語を母語とする人々から提言されていることを見落とすべきではない。
なぜ、彼らは「オーラル重視」ということ「ばかり」言うのか。
彼らは英語が国際共通語になり、多くの人が英語を解することからもちろん利益を得ている。
なにしろ、世界中どこに行ってもIs there anyone who can speak English? と問えばだいたいの用事は済むのである。この問いに誰も答える人がいなければ、肩をすくめて「野蛮人の国に来ちまったぜ」とひとりごとをいえば気持は片付く(用事は片付かないけど)。
けれども、英語が国際共通語になり、自在に英語を使う人間がある程度以上の人数を超えた時点で「英語を母語とする国民」が現在享受しているアドバンテージは失われる。
当然である。
それが国際共通語になった国語のかかえる「背理」である。
自国語が国際共通語であることは自国民に多くの利益をもたらす。
けれども、国際共通性があまりに高まると、その利益は失われる。
国際共通語には「損益分岐点」が存在する。
それは「こちらの言うことは向こうに通じるが、向こうが耳障りなことを言い出したらこちらには通じなくなる」程度の英語力である。
それが非英語圏の人々がとどめおかれるべき理想的な英語力レベルなのである。
外交交渉でも、ビジネスシーンでも、国際学会でも、英語話者がしゃべる話はその場の全員が理解できて当然であるのだが、非英語圏の人間が話すことについては英語話者は「まるで幼児の話を聴いているような見下し目線」をとることが許され、「何を言っているのかわからない」といってリジェクトする権利が留保されている、そのような非対称的な言語状況においてはじめて自国語が国際共通語になったことによって得られる利益は「最大化」する。
だから、私がいまアメリカ国務省の小役人で、言語を戦略的に考えるポストにあれば、「非英語圏の人間には、オーラル中心の語学教育法を勧奨すべし」というレポートを長官に提出するはずである。
なぜオーラル・コミュニケーション中心の学習法が言語の非対称性を維持する上で有利であるかについてはこれまでに何度も書いた。
植民地ではオーラル中心の語学教育を行い、読み書きには副次的な重要性しか与えない。
これは伝統的な帝国主義の言語戦略である。
理由は明らかで、うっかり子どもたちに宗主国の言語の文法規則や古典の鑑賞や、修辞法を教えてしまうと、知的資質にめぐまれた子どもたちは、いずれ植民地支配者たちがむずかしくて理解できない書物を読むようになり、彼らが読んだこともない古典の教養を披歴するようになるからである。
植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。
けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。
「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。
教えるのは、「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ。
それが「植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略」の基本である。
「会話」に限定されている限り、母語話者は好きなときに相手の話を遮って「ちちち」と指を揺らし、発音の誤りを訂正し、相手の「知的劣位」を思い知らせることができる。
「現代の世俗のできごと」にトピックを限定している限り(政治経済のような「浮世の話」や、流行の音楽や映画やスポーツやテレビ番組について語っている限り)、植民地人がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと、宗主国の人間は知的威圧感を感じることがない。
しかし、どれほどたどたどしくても、自分たちが(名前を知っているだけで)読んだこともない自国の古典を原語で読み、それについてコメントできる外国人の出現にはつよい不快感を覚える。
日本の語学教育が明治以来読み書き中心であったのは、「欧米にキャッチアップ」するという国家的要請があったからである。
戦後、オーラル中心に変わったのは、「戦勝国アメリカに対して構造的に劣位にあること」が敗戦国民に求められたからである。
私はそれが「悪い」と言っているのではない。
言語はそのようにすぐれ
て戦略的なものである。
て戦略的なものである。
英語圏の国が覇権国家である限り、彼らが英語を母語とすることのアドバンテージを最大化する工夫をするのは当然のことである。
非英語圏に生まれた人間は「それだけ」ですでに大きなハンディを背負っているような「仕組み」を作り上げる。
これを非とする権利は私たちにはない。
日本だって70年前には東アジアの全域で、「日本語話者であることのアドバンテージが最大化する仕組み」を作ろうとして、現に局所的には作り上げたからである。
けれども、ハンディキャップを負う側にいる以上、「どうやって英語話者の不当に大きなアドバンテージを切り崩すか」ということを実践的課題として思量するくらいのことはしてもよいと思う。
私からのご提案はとりあえず一つだけ。
それは、びっくりされる方もおられると思うが、「英語」という包括的な名称の廃絶である。
かわりに暫定的に「lingua franca」という言語カテゴリーを作る。
かつてヨーロッパにおいてはラテン語がそうであった。
知識人たちはローカルな国語を生活言語として持つ一方で、ラテン語で著述し、書簡を取り交わした。
私はこの「リンガ・フランカ」はフェアな仕組みだったと思う。
というのは、ラテン語については「ラテン語を母語とする国民」というものが存在しなかったからである。
知的競争に勝つチャンスは、とりあえずヨーロッパの言語圏においては平等に分配されていた。
この状況を21世紀のリンガ・フランカについても適用すべきではないかと私は思う。
では、「英語」ではないところの「国際共通語(リンガ・フランカ)」とは何か。
福岡伸一先生がこんなエピソードを紹介していた。
アメリカで分子生物学の学会があった。
福岡先生がその開会セレモニーに参加したとき、学会長の挨拶があった。
学会長はドイツ人の学者であった。
彼はこう言ったそうである。
「この学会の公用語はEnglish ではありません」
会場はどよめいた。ではいったい何語で学会は行われるのであろうか・・・
学会長はこう続けた。
「この学会の公用語はPoor Englishです」
私はこの構えを支持するものである。
Poor English はシェークスピアやポウを読むための言語ではない。
それは「英語を母語としない人々同士が意思疎通を果たす」という目的だけに限定されたリンガ・フランカである。
Poor Englishをオーラル・コミュニケーションの場で用いる際のいくつかの規則をここで定めておきたい。
(1) 決して話者の発音を訂正してはならない
(2) 決して話者の文法的間違いを訂正してはならない
「発音の間違い」や「文法的な間違い」が指摘できるということは、「正しい発音」や「正しい文法的表現」が「正解」として知られているということである。正解がわかっているからこそ、それが「誤り」であるとして訂正可能となるのである。
正解がわかっているということは、話者が「何を言いたいのか」はすでに知られているということであり、それはPoor English においては十分なコミュニケーションが成立しているとみなされる。
(3) ただし、自分より話すのが下手な人の「言いたいこと」をより適切な文に「言い換え」て対話を継続することは許される。
(4) Poor Englishは学校教育のどの段階から開始しても構わないが、教師は「英語を母語としないもの」とする。
とりあえず、私が思いついたルールは以上の4点である。
非英語圏の英語教育は「リンガ・フランカ教育」と「英語教育」に二分すべきだと思う。
この二つは別のものでなければならない。
日本の英語教育が失敗しているのは、この二つを混同しているせいである。
「リンガ・フランカ」では日常的コミュニケーションでもっとも使用頻度の高い語から教える。
「英語」でははやい段階から英米文学の古典を教える。
「リンガ・フランカ」では身ぶり手ぶりもピジンもすべて正規の表現手段として認められる。
「英語」では、古典を適切な日本語に翻訳すること、修辞的に破綻のない英文を作ることを教育目標に掲げる。
中学なら時間割の時間配分は5:1くらいでよろしいであろう(もちろんリンガ・フランカが5)。高校になったら3:1くらいにして、大学ではできたら2:1くらいまでに持ってゆく。
これは「英語がほぼ独占的な国際共通語になった」という歴史的状況に対処するための、たぶんいちばんプラクティカルなソリューションであると私は思う。
小学生程度の英語を流暢に話す技能を「英語ができる」と評価することに私は反対である。それは「リンガ・フランカがよくできる」という項目で評価し、「英語ができる」という言い回しは「仮定法過去完了」とか「現在分詞構文」とかがぱきぱきと説明でき、He is an oyster of a man というようなセンテンスを嬉々として作文に使う子どものために取っておきたいと思うのである。
どうであろうか。