私は今、本源的な問いかけをするために、ここにいる。
論証と答えを記すには論文が必要である
しかし問いかけを示すには
文学の言葉がふさわしい
メタファーがふさわしい
自分としてできるだけ広くかつ精密に考えるために若い頃から無限の時間を前提として学んできた
成果は遠い先で構わないと考えていた
締め切りはなかったのである
自己の鍛錬であり、自己教育であると考えていた
学ぶこと自体が楽しかった
答えに行き着かなくてもいい、問いを見出すだけで私には意味があった
しかし気がつくと老齢である
問いかけはいまもあるが答えはない
これでいいのだろうかと考えるようになった
一体どうすればいいのだろうと悩むようになった
私のひ孫が、いま私のいる地点から人生をスタートできるなら
それはとても良いことだと思う
私のような無駄な回り道をすることもない
(私としては誠に楽しい回り道であったと、負け惜しみを言いたいのであるが、おそらく負け惜しみなのだろう)
逆に言えば、当時の私の祖父が、私を教育できる立場であったにもかかわらず、
問いかけと、人生の歩き方を示すことなく、ヘボ将棋に日曜日のほぼ全部を費消したことに罪があるのではないかと思う