“ 最近の「無縁社会」ブームは、古い「縁」だけでなく、新しい「縁」とも切れてしまった人たちが、強い不安を感じていることのあらわれかもしれない。た だ、タイミング的に不純な動機があることは否めないと思う。それこそ、若い時は自由を謳歌して、伝統宗教や信仰心まで破壊し尽くしてきた団塊世代が、いざ 引退する段になり、都合良く「縁」を求めているだけではないのか。「共同体や伝統、信仰を守る気はさらさらないが、老後が心配なので社会が何とかしろ」と いうのでは、筋が通らない。
以前、お笑い芸人のネタであったが、「助け合いという言葉を強調する人は、たいてい一方的に助けられるだけの人」と いうのは結構真理のような気がする。元気な時は家族やご近所を軽視しておきながら、自分が弱ったら「支え合い」を要求し、それが通りそうにないので政府に よる「共生政策」で介護や見回りを強要するのは、文字通り「目先の損得」でしかない。結局は、「経済的な豊かさを追ひ求める一方、昔ながらの濃密で煩雑な 人間関係を忌避した我々」の延長線上に、損得勘定にまみれた「縁(のようなもの)」を夢想しているだけなのだ。
本当の意味で「無縁」を乗り越え たいなら、共同体や伝統、信仰といったものを、都市型生活や個人主義的人生観に寄り添うような形で、地道に再構築していく必要がある。近代的な市民社会、 市場経済を縁の下で支える存在にもっと目を向けなければ、そのスキマに政府がどんどん入り込んで、われわれの「人生(の意味)」は侵食されていくだろう。”
「無縁社会」を恐れる損得勘定