ドラマの作法
あまりドラマは見ないけれど
それは何となく不愉快だからだと思う
感情表現の側面で見ると
感情の分類が少なすぎて
その表現の仕方も単にボリュームを100分のいくつにするかという程度の簡単な選択のようだ
複雑な感情は表現しても仕方ないので言葉で説明したりする
この辺りの作り方は劇画に似てきていると思う
小説的ではない
まあ、もともとシナリオ的なのであるが
どれだけ怒っているかということは声の大きさで伝える
感情一般にどれだけの強度であるかを表現するとき、理性からの逸脱をものさしにしている(らしい)
それが楽しいと感じられる人もいるのだろう
多分、言葉のよくわからない人にも楽しめるようにと配慮されているのではないだろうか
言葉は理解できない、動作を見て推測する、感情表現も普遍的なものは理解できる
感情の大きさは大げささの具合、声の大きさの程度、そんなところだろうか
中国人が技能研修生として来日し、労働基準法の適用を受けないで研修という名の低賃金労働をする
ブラジル人は二世、三世、およびその家族なら許可というので、日本と全く関係のない人も来日して
まず言葉の壁で苦労する
公教育の対象になればいいけれどもそうでない子供もいるし
日本語の細かいところまでの理解は親もしていない
いろいろな単語を混ぜてしゃべる
(これは新しい文学の潜在的可能性を感じさせるのだが)
こうした現状が各地で存在し
タイ、フィリピン、中国、ブラジル、その他の人々の人生がある
何れにしても人間はもっと複雑な反応を示す生き物だと思う
複雑な反応を示すために必要なのは多分複雑な言葉だろうと思う
語彙数が少なすぎたり、表現のレパートリーが少なすぎたりすると、
深く微妙に感じることができないのではないかと思う
そしてその時の感情を記憶して想起することが難しくなると思う